(怯むな!石原プロよ。【前編:舘ひろしと金児憲史】の続きである)
遊川和彦(「家政婦のミタ」の脚本家であり、「純と愛」の脚本家である)の脚本は、人に対して容赦がない。
徹底的に人間の醜さ、狡さを描く。
「しかし、遊川(ユカワ)は、人間が好きなんだ。『純と愛』の本当の主人公は、『純』でも『愛(いとし)』でもない。『純』の身勝手な父親である狩野善行(武田鉄矢)であり、『純』の優柔不断でいつも逃げ腰な兄である狩野正(速水もこみち)であり、そして、『愛』のヒステリックな母親である待田多恵子(若村麻由美)なんだ」
とエヴァンジェリスト氏は云う。「遊川(ユカワ)」と呼び捨てにするのが気に入らないが、同じ広島出身で年齢も1歳違いで、勝手に親しい間柄だと思い込んでいるようなのだ(参照:【続・衝撃】舘ひろしになれない )。
「言わば『レンブラント光線』だな」
したり顔で云う。
「遠藤さんが云う『レンブラント光線』だな」
遠藤さん、て親しげに云ってるが、遠藤周作のことである。遠藤周作は、エヴァンジェリスト氏の先輩であり、ご子息(フジテレビ常務の遠藤龍之介)は後輩ではあるが、知合いではないはずだ。但し、エヴァンジェリスト氏が遠藤周作の影響を強く受けていることは確かである。
「レンブラント光線」は、レンブラントの絵がそうであるように、闇を描いてそこに光を浮かび上がらせる技法といってもいいであろうか(単なるテクニックの問題ではないので、「技法」という語は正しくはないが)。
つまり、エヴァンジェリスト氏は、遊川和彦は徹底的に人間の醜さ、狡さを描きながらも(原罪とも云えるかもしれない)、その人間たちの救いを描こうとしているのであろう、というのだ。
遠藤周作的な、或は、フランソワ・モーリアック的な、ジュリアン・グリーン的な、グレアム・グリーン的な描き方と云いたいようだ。
だが、「レンブラント光線」と金児憲史(かねこ・のりひと)との関係が分らない。
(続く)
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