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2015年5月10日日曜日

【いよいよ、石原プロ入りか?】『西部警察カラオケ』のヒットと『わたしの日々』連載中止とが意味するもの



「いよいよですか?」

エヴァンジェリスト氏を直撃した。

「は?なんのことだ?」
「いよいよなんでしょ、石原プロ入りが」
「おお、久しぶりにその線で来たか」
「事務所を通してくれ、は通じませんよ」
「何故だ?」
「だって、アナタ、まだ事務所には入ってないでしょ」
「なとほど、理屈だな」
「アナタの『事務所』は、石原プロしかないでしょ」
「まあ、皆んな、そう思っているのだろうな」
「で、いよいよなんでしょ?」
「どうして、いいいよ、なんだ?」
「だって、齋藤さんが云ってるじゃあないですか」
「齋藤さん?」
「しらばっくれてもダメですよ!」
齋藤厚子さんかい?石原プロモーション総務部企画担当・音楽出版担当の齋藤厚子さんかい?」
「ああ、やはりそうなんですね」
厚子さんは、ワシが石原プロ入りするなんて云ってはいないはずだ」
「ええ、そうは仰っていません」
「だろうなあ」
「しかしです。しかし、この夏、数年後の映画制作のために新人俳優を募集します、って仰っていました」
「うっ!」
「新人俳優募集って、実は、アナタに石原プロに入って欲しい、っていうプロポーズなんではないですか?」
厚子さん、『西部警察カラオケ』で当てたようだな」
「誤魔化さないでください」
「『西部警察カラオケ』で当てたのなら、ワシに頼る必要はないではないか」
「アナタ、本当にそう思っているのですか?」
「ううっ!なんだ、その挑戦的な言い方は」
「手持ちの権利、資産を活用することは悪いことではありません。企業はどんな手を使っても利益を上げていかなくてはいけませんからね」
「その通りだ」
「しかし、アナタは思っているはずだ。過去の資産に頼ってばかりではダメだ、と」
「勝手にヒトの心を読むのではない!」
「アナタ、まだ『石原プロ』と『水木プロ』の合併を画策しているのではないですか?」


「そんな勝手なことをほざいていると、まき子夫人や尚子さんに叱られるぞ!」
水木プロダクションの武良尚子さんのことも、『尚子さん』って呼ぶ程の仲なんですね」
「違う!番う!尚子さんとは面識はない」
「分っているんですよ。『西部警察カラオケ』のニュースと『ビッグコミック』の水木先生の『わたしの日々』の連載中止のニュースがほぼ同時に流れたのは偶然でしょうか?」
「そりゃ、偶然だろう」
「ほほー、お惚けですか。アナタが裏でイトを引いているんでしょ?石原プロは『西部警察カラオケ』のヒットで合併に向けプラス・イメージを作り、一方、水木先生は、合併準備で忙しくなって連載を中止されたのではないですか?
「いい加減にしろ、そんなガセネタは。これ以上云うなら、石原プロと水木プロに代ってワシが厳重抗議をするぞ!」
「ほら、ボロが出た。アナタ,石原プロと水木プロに代る(両プロを代表する)立場にあるんですね!?」
「五月蝿い!誰か、桃怪人2号でも呼んで、こいつを退治させてくれないか!」








2014年9月3日水曜日

「○○ラン饅頭?.....鶏卵堂さんに怒られますよ!」



「美味しいのお、○○ラン饅頭は」

いきなりの暴言であった。エヴァンジェリスト氏である。

「何、云っているんですか!」
「美味しいものを美味しいと云って、何が悪い」
「アオニヨシ君が怒りますよ」
「何故だ?アイツの帰省土産だろ、あの○○ラン饅頭は」
「鶏卵堂さんも怒りますよ」
「何だ?その鶏卵堂とやらは」
「アナタ、字が読めないんですか?饅頭の包み紙を見れば分るでしょ」
「老眼が酷くなり、読めなんだ」
「アオニヨシ君の母方の田舎である島根県は益田市の鶏卵堂ですよ。あの饅頭は、鶏卵堂の鶏卵饅頭です。益田名物です」
「何か知らんが、あの饅頭はとにかく美味い!美味いし、卵でも入っているのか、何だか元気が出て来て、ちょっとソンナ気分にもなる」
「何ですか?ソンナ気分って」
「○○ランな気分だ。だから、○○ラン饅頭だ」
「もう、いい加減にして下さい。シャレだったんですか!本当に鶏卵堂さんに怒られますよ」
「美味いと云っているのに、何故、怒られないといけないんだ」
「鶏卵饅頭は、元は京都の住吉製菓のもので、鶏卵堂さんが住吉製菓から製法を教えてもらって作るようになったんです。『探偵ナイトスクープ』でも取り上げられたようです」
「やけに詳しいなあ。君は鶏卵堂のまわしものか?」
「そんな銘菓のことを『○○ラン』だなんて、失礼にも程があります!」
「君は相変らず何も分っちゃいないなあ。鶏卵堂はその内、ワシの発言にヒントを得て、『ケイランか○○ランか…アナタをソンナ気分にさせる饅頭、ウフン』なんてキャッシュフレーズで鶏卵饅頭の販売を全国展開するかもしれんぞ。売れるぞ」
「そんなことはあり得ません!!!」

鶏卵堂さん、本当に申し訳ありません……そして、人間鹿のアオニヨシ君、ごめんなさい。

不器用な奴なんです、エヴァンジェリスト氏って男は。美味しいなら、素直に美味しいと云えばいいものを…本当にごめんなさい。まあ、私が謝ることではないが。









2012年10月6日土曜日

ミニテルは死なない




Appleから「iCloudの無料ストレージアップグレードが延長されました」というメールが届いた。

そのメールは、「カレ」にも届いた。「カレ」は云った。

「ミニテルは死なない」

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この「iCloudの無料ストレージアップグレードの延長」は、MobileMe時代から長くサービスを利用して来たユーザー向けの処置らしい。

MobileMeからiCloudへの移行時に、通常のiCloudアカウントに含まれる5GBのストレージに加えて無料アップグレードが提供されていたが、そのストレージアップグレードは2012年9月30日で終了予定であったのだ。

MobileMeからiCloudへの移行は、2012年6月30日であった。

そして、その2012年6月30日は、「ミニテル」の終焉の日であったのだ。

「ミニテル」は、フランスで大成功を収めた情報通信サービスである。

正しくは、サービス名称は「テレテル」(Télétél)で、その端末の名称が「ミニテル」(Minitel)であるが、通常、「ミニテル」サービスと云われている。ネットワークには、Transpac(FranceTelecomが提供するパケット通信網)が使われた。




「ミニテル」は、インターネットを先取りしたサービスであったとも云える。

「ミニテル」は、フランスの他に、イタリアでもサービス化され、また、米国等でもサービス会社が設立されたが、フランスのような成功は収めなかった。

そして、今は知る人も少ないのであろうが、「ミニテル」は日本でも事業化が計画されたのであった

日本からフランスの「ミニテル」に接続するサービスである「Minitelnet」というサービスがあったが、そのことではない。因に、「Minitelnet」はFrance TelecomとINFONET Serices Crporation との提携によるサービスであったが、そのINFONET(その後、BTに買収されBT-Infonetとなった)も今年でなくなるらしい。

「ミニテル」の日本での事業化は、「日本語ミニテル協会」という組織により計画されたのだ。「feasibility study」が為され、Business Planが作成されたらしい。

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….しかし、日本で「ミニテル」事業化は実現されなかった。

その「ミニテル」の日本での事業化、「日本語ミニテル協会」に「カレは深く関係していたらしい。

私とエヴァンジェリスト氏の共通の知合いであり、Monsieur Minitel au Japon(ムッシュウ・ミニテル・オ・ジャポン:日本のミスター・ミニテル)と呼ばれていた「カレ」は、Appleから「iCloudの無料ストレージアップグレードが延長されました」というメールを見て、云った。

「ミニテルは死なない。ミニテルも死なないのだ」

「.mac」が「MobileMe]となり、「iCloud」となり、ある意味では生き残っているように、「ミニテル」も形を変え、生き残っていく、とでも云いたいのであろうか。

或は、ミスター・シューベルトが「天使」になってもまだ、私の心の中に、そして、エヴァンジェリスト氏や「カレ」(Monsieur Minitel au Japon)の心の中に生きているのと同じように、とも云いたいのかもしれない(参照:アナタは妖精を見たことがあるか?!

「ミニテルは死なない」

その言葉の真意を、そして、「ミニテル」の日本での事業化、「日本語ミニテル協会」について「カレ」に訊いてみたいが、今、「カレ」は、「ミニテル」の思い出にふけっているのか、虚空を見つめ、とても話しかけられる雰囲気ではない。

いずれ「カレ」には、何故「ミニテルは死なない」のか訊き、報告したい。






2012年9月25日火曜日

【疑惑の旅】みすや針にしけ込んだ?(シーン2)






「いやあ、みすや針には苦労しましたあ」

京都の特派員からの続報である。

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「砂糖とミルクの分量が絶妙である」

と満足げにイノダコーヒを出たエヴァンジェリスト氏と若い女性の後を付けて行ったのだ。

因に、イノダコーヒでは(くどいが、「イノダコーヒ」であって「イノダコーヒー」ではない)、原則として、コーヒーには砂糖とミルクを入れ、混ぜた形で供される。

コーヒーに対する砂糖の量、ミルクの量、そして、その結果としての砂糖とミルクの量の比率が絶妙(美味い!)ということである。

決して安くはないが、そのレトロな店の佇まいが醸し出す格式と、伝統を持つ「コーヒ」そのものの味をエヴァンジェリスト氏は連れの若い女性に味合せたっかのかもしれない。

イノダコーヒの従業員の客への対応振りにもエヴァンジェリスト氏は感心していたようだ。

氏の後に、老夫婦が店に入ってきた。満席ではなかったが、かなり席は埋っていた。4人掛けの席も少し空いていたが、7-8人掛けの席が幾つか空いていた。

店の人は、老夫婦に声を掛けた。

「どちらの席でもいいですよ。どうぞ、ご遠慮なく広い席にどうぞ」

なかなかできることではない。今時の店は、店側の都合だけ考え、1人の客には、カウンターがあればそこに、二人の客には二人掛けの席がそこに通そうとし、多人数の席は多人数の客が来た時の為にととっておきたがるものである。

「店に1人で入ると、カウンター等、狭い席に通されることが常である。大いに不満である」

と云っているエヴァンジェリスト氏である。イノダコーヒの接客に満悦であったのは当然であろう。

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イノダコーヒを出たエヴァンジェリスト氏と若い女性は、三条通を東に向った。

河原町三条の交差点近くで特派員は二人の姿を見失った。

「あの二人、一体、どこにしけ込みやがったんだ。まだ4時前なのに…..」

焦った。

「ここを入って行ったようにも見えたんだが….」

それは、あるビルの隣接したビルとの間の路地と云うか、通路のようなところであった。「ミカヅキモモコ」の入ったビルの正面から見て右の通路である。

「まさかなあ。こんなところに、しけ込めるような処があるかなあ?」

お下劣な特派員である。

「まさかなあ」とは思いながら、その通路のようなところを恐る恐る入っていった。

そして、通路を抜けたそこは……….





別天地であった。



(続く)


2012年3月14日水曜日

【ネーミング】「新しいiPad」の名前を知らないんですか?

「ホント、皆、分ってないんだなあ.......悲しいよ」

「『新しいiPad』の名前って、『新しいiPad』なんですか?」と訊いたところ、うんざりだという感情を隠すこともなく、吐き出すようにエヴァンジェリスト氏が云った。

「これじゃ、スティーブもおちおち死んでられないなあ」
「じゃあ、何て名前なんですか?」

「『新しいiPad』の名前は、『iPad』に決っておる!
「へ?」
「名前が『iPad』だから、新しい『iPad」(The new iPad)なんだ」

エヴァンジェリスト氏曰く、iMacは新しくなっても名前はiMacだし、MacBookProも新しくなってもMacBookPro、そして、MacBookAirも新しいものもMacBookAir、ということである。

そう云われればその通りである。Appleの自身の商品へのネーミングは、エヴァンジェリスト氏の云う通りである。iPhoneには「3」とか「3G」、「4」、「4S」と付けているし、iPadにも「2」が付いた。しかし、Appleの商品のネーミングの基本は、商品に番号は付けず、同じシリーズの商品の名前は新しくなっても変えないのだ。

珍しくまともなことを云うエヴァンジェリスト氏であった。

「世には、自身の製品に直ぐに○○○○○ III とか、○○○○○ IV なんて名前を付けたがる者がいる。それが駄目とは云わんが、そうネーミングする時には覚悟が必要なんだ」
「あのことですか?」
「商品名に『III』なんて付けるから、次は『IV』,その次は『IV』だろうと勝手に予想、期待されてしまうのだ。そして、実際にそうネーミングしてしまうことになるのだ。しかも、『III』が『IV』、『IV』が『V』になるとメジャー・バージョンアップと期待され、しかし、その期待程の内容がないと顧客やマスコミはがっかりするのだ。自身が付けたネーミングの呪縛に囚われることになるのだ」

今回ばかりは云おう、さすがネーミングの帝王と云われるだけのことはありますね、エヴァンジェリスト氏

【WWE】ごめんなさい、ケンドー・カシン。いや、石澤常光さん。



ごめんなさい、ケンドー・カシン。いや、石澤常光さん。


【WWE】プロレス団体を財務分析してみる。......ワカシショー・ブラック氏。に、「ワカシショー・ブラック氏以外に、真剣にプロレス団体の財務分析をする人を知らない」と記したが、ケンドー・カシン、いや、石澤常光さんが、早稲田大学の社会人大学院(修士1年制)に入り、その時に書いた論文「日本におけるプロレス団体のマネジメントに関する考察」で真剣にプロレス団体の財務分析をされていたのだ


論文の目的は、文字通り、日本におけるプロレス団体のマネジメントに関するものであり、プロレス団体の財務分析ではない。しかし、マネジメントについての考察の一環として、WWEと新日本プロレスの財務分析もされているのだ。プロレス団体ではないが、UFCについても財務分析、考察をされている。

立派な論文である。しかし、エヴァンジェリスト氏は云う。

「よくできた論文ではあるが、不足なところもあるなあ。プロレスのあり方については、猪木さんや、別冊・昭和プロレス異人伝さん(プロレス等に関する名Blogである)が日頃、云われていることと同じである。ワシもそこに異論はない。ワシには理解できるが、もっと説明があってしかるべきであろう。技のあり方等、歴史的アプローチがあっても良かったとは思うなあ」

相変らず偉そうである。

そこで、云ってやった。

「石澤常光さんの論文『日本におけるプロレス団体のマネジメントに関する考察』はネットで見ることができましたよね。アナタのフランソワ・モーリアックに関する論文もネットで見られるかなあ。ヒヒヒヒヒ」

「.......」

さすがのエヴァンジェリスト氏も絶句した。ネットで論文が見られる時代とは怖い時代である。

ところで、石澤常光さんの論文の最後尾の「謝辞」が面白い。石澤常光からケンドー・カシンになっている部分があるのだ


2011年10月9日日曜日

スティーブから学んでいない......

「我々は、スティーブから学んでいない......」

スティーブに先見性はなかった.....と、ついにスティーブ・ジョブズについて語ったエヴァンジェリスト氏が続けて語る。

「我々は、スティーブが創った未来を享受しているが、スティーブから学んではいない」

どういう意味か分らず、黙っていると、

「我々は、スティーブが創ったMacintosh、iPod、iTunes、iPhone、iPadで、それら以前の時代には創造だにできなかった生活を送れるようになった。今、iPhoneのない生活なんて創造できない。しかし........」
「しかし?」
「しかし、だ。我々は、いや、総ての者がとは云わないが、多くの者が、未来を創造してみせたスティーブの教えを学んでいない。スティーブが創った未来は享受しながらも、その未来を創造する方法を学ばない。未来を創造しようとしない。自分にできるとは思わない。未来の創造そのものではなくとも、未来を創造する為にとる方法論を実行しようとはしない
「いや、スティーブ・ジョブズのプレゼンテーションは、素晴らしく、『スティーブ・ジョブズ驚異のプレゼン』という本はベストセラーになってますよ」
「相変わらず、君は何も分っていない。確かに、スティーブはプレゼンテーション上手だ。が、ただスティーブのプレゼンテーションの仕方を、その表面(おもてづら)を真似ても何にもならない。
「それはそうですが..........」
「クリエイティブも大事ではあるが、それ以上に大事なのはオファーだ。プレゼンテーションの表現(クリエイティブ)よりも、プレゼンテーションする(提示する)内容(オファー)の方がより大事なのだ」
「ダイレクト・マーケティングでも云われることですね」
「スティーブは確かにプレゼンテーションがうまい。そのテクニックを学ぶのも良かろう。しかし、真にスティーブから学ぶべきものを知るべきだ。人々は、スティーブが創った未来は享受しながらも、未来を創造する上で不可欠な要素である固定観念からの脱却ができないのだ
「いや、誰でもがスティーブ・ジョブズのようになれる訳ではありませんよ」
「それが既に固定観念だ。スティーブは特別な存在ではなかった。誰でもがスティーブのようになれるのだ
「貴方もですか?」
「私はスティーブではない。エヴァンジェリストだ」
「???」

2011年10月8日土曜日

スティーブに先見性はなかった.....

「スティーブに先見性はなかった.....」

エヴァンジェリスト氏が、ついにスティーブ・ジョブズについて口を開いた。

同級生であったスティーブ・ジョブズに先立たれ、どういう気持ちでいるのかと気になっていたのだ。

因に、「同級生」というのは、エヴァンジェリスト氏の表現である。同学年という意味らしい。しかも、日本の学年に換算してである。エヴァンジェリスト氏は1954年生まれ。スティーブ・ジョブズは、1955年の2月生まれ(所謂、早生まれである)。エヴァンジェリスト氏とスティーブ・ジョブズが本当に同じクラスになったことがあるのか(文字通りの同級生であったのか)は、知らない。

「スティーブに先見性はなかった.....」

繰返した。悲嘆にくれているのかと思ったら、批判的言辞か.........

「そう、スティーブに先見性はなかった.....」

くどい!....しかし、それで分った。エヴァンジェリスト氏の気持ちが分った。

表情はいつもと変らず、何を考えているのか読めなかったが、同じことを三度云うところから、氏の動揺を私は読んだ。

しかし、あれだけ先見性があったと云われるスティーブ・ジョブズのことを先見性がなかったという真意が分らない。Apple社が出したコメントでも「先見の明があった」と云われているのである

「スティーブに先見性はなかった。彼は未来を創造したのだ。未来を見透したのではなく、未来を予測したのではなく、未来を創造したのだ」

アラン・ケイか!

アラン・ケイは云ったのだ、「未来を予測する最良の方法は、未来を創造することだ」と。有名な言葉である。

周知のことかと思うが、アラン・ケイは、Macintoshの源流とも云えるXeroxのAltoの開発に携わり、その後に、Appleのフェローにもなった「パーソナル・コンピューターの父」とも云われる人物である(美しくなければいけない(後編))。パーソナル・コンピューターという概念・言葉を考えたとも云われる。「Dynabook」なる概念・構想(云うまでもなかろうが、東芝のノート・パソコンのことではない)を提唱し、その実現がiPadと捉えることもできるのだ。

「スティーブは、日常生活にコンピューターのある未来社会を予見したのではない。音楽を、しかも大量の曲をウチの外で聞ける未来生活が来ると読んだのではない。音楽をレコード店に買いに行かなくてもいい時代が来ると予想したのではない。ウチの中でも、外を歩きながらでも、通勤電車の中でも、ゴルフ場でもどこでも知りたい情報を得られるようになる場面を想像したのではない」
「................」
「スティーブは、Macintoshで、iPod、iTunes、iPhone、iPadで、そんな社会を、そんな生活を、そんな時代を、そんな場面を創ったのである。そんな社会を、そんな生活を、そんな時代を、そんな場面を創りたくなり、それを実現したのだ」
「................」
「スティーブに先見性があった訳ではない。スティーブは、未来を創造したのだ。そして、我々はスティーブが創った未来を享受しているのだ」

2011年9月22日木曜日

スカリーは間違っていたのか?(後編)

「虚」中の「実」は、本来、「虚」である。そのはずである。「夢」の中に「現実」は存在し得ないように

しかし、それはそもそも「虚」であったのか?........と、エヴァンジェリスト氏は云う。

スカリーの教えは「実」である。彼のマーケティングの教えは決して間違っていない。

では、スカリー自身は「虚」であったのか?Appleに対するジョン・スカリーは「虚」であったのか?

彼は、Appleの最大のミスは、自分をCEOにしたことであるとか、Appleに於ける自分の業績はスティーブ・ジョブズに依るものである等と云っているらしい。スティーブ・ジョブズが去った後も(追い出された後も)、スティーブ・ジョブズのDNA(デザイン哲学等)に従いAppleは動き、業績は向上したといった意味であるようだ。

即ち、ジョン・スカリーは、Appleに於ける自身を「虚」であったと云っているに等しいのだ

しかし、スカリーは間違っている。スカリーが「虚」であるとしたら、Apple時代がそうであったのではなく、Appleに於ける自身を否定している今である

スティーブ・ジョブズが去った後(追い出された後)、スカリーはAppleの売上を10倍にしてみせたのだ。Macintoshがそれを実現したのだ。

Macintoshの源流には、パロ・アルトに始るスティーブ・ジョブズの発想があったことは確かである。Macintoshにはスティーブ・ジョブズのDNAが存在することは確かである(当初、スティーブ・ジョブズはMacintoshのプロジェクトには加わっていなかったはずではあるとしても)。

しかし、MacintoshのDNAはスティーブ・ジョブズのそれだけではないのだ。そこには、ジェフ・ラスキンのそれもあったであろうし(彼はMacintoshプロジェクトを立ち上げた一人である)、Macintoshには欠かせぬソフトウエア(ツール)であったHyperCardの開発者でるビル・アトキンソンのそれもあったであろう(彼はMacPaintやQuickDrawも開発している)。

また、ある時期Macintoshのデザインを担当したフロッグ・デザイン社のDNAもあったであろうし、「エヴァンジェリスト」なる存在(概念)を創ったといっていいガイ・カワサキのDNAもあることは間違いない。

そして........

そういった人々をリードしたジョン・スカリー自身のDNAもMacintoshの中にはあるのだ。

確かに、今のAppleの隆盛はスティーブ・ジョブズに依るところが大きい(勿論、スティーブだけの功績ではないことは、スティーブ自身がよく分っているはずだ、とエヴァンジェリスト氏は云う)。

しかし、Macintoshが1984年、衝撃的な登場をし、その後、進化し、成長していった過程にいたのは、スティーブ・ジョブズではなく、ジョン・スカリーであったのだ

今のAppleの隆盛をもたらしたスティーブ・ジョブズを見て、Apple時代の自身を否定してはいけないのだ。

................と、エヴァンジェリスト氏は云う。

「ジョンにそう云ってやりたいが、彼とは親しくはないのでね」

スティーブとは同級生だけど(日本的には同学年ということらしい)、という顔をして云う。

Apple時代のスカリーは決して「虚」ではない。

そして、スカリーの教えは「実」である。彼のマーケティングの教えは決して間違っていない。それは、「虚」中の「実」ではなく、「実」中の「実」なのである

......では、もう一人、エヴァンジェリスト氏にマーケティングを教えた(エヴァンジェリスト氏に初めてマーケティングなるものの存在を教えた)アノ人の教えは「実」であったのであろうか?

尊属傷害致死で逮捕され実刑を受けたアノ人の教えは「実」であったのであろうか。

「いずれそのことは語ることになるであろう」

そう云うエヴァンジェリスト氏の顔はいつになく厳しい。

2011年9月11日日曜日

スカリーは間違っていたのか?(中編)

「スカリーに学ぶところは多かった」

エヴァンジェリスト氏は述懐する。

「自分がスカリーから学んだものは『虚』であったのか?」

スカリーがApple時代の自身を否定すると(その時代の自分を『虚』とすると)、そのスカリーから学んだものの『虚・実』が問題となりかねないのである。

「スカリーとは知合いではないが、彼の自伝Odyssey: Pepsi to Apple.=邦題『スカリー【世界を動かす経営哲学】』- 会津泉・訳から学ぶものは多かった」

Appleの会長時代に出版されたスカリーの自伝は、スティーブ・ジョブズとの経緯の記述等、自伝であると同時に、マーケティング書でもあるのだ。

「例えば.......」とエヴァンジェリスト氏は云う。

『通常、競争相手を骨抜きにするには、競争の土俵そのものを変えてしまわなければならない』とスカリーは云うが、これはマーケティングそのもののことを云っているのである。

マーケティングは色々に定義可能ではあるが、エヴァンジェリスト氏は、それは「創造」であると云う。競合を持たない状況を作り上げることをいう、と云う。

『成功のための自分自身のガイドラインを確立すること』の重要性をスカリーは説いているが、それはマーケティングに限らず、有効な考え方/処し方であると、エヴァンジェリスト氏は云う。

即ち、成功の基準は他者に設定させず、自分自身で作るべきであるということなのだ

成功の基準は一様ではない。それは如何ようにも設定可能なものである。他者にそれを設定させると失敗の烙印を押されがちである。成功するか否かは、少々姑息な感じを持たれるかもしれないが、成功の基準を自分で設定するかどうかにかかっているとさせ云えるのである。

..........以上のようなことをエヴァンジェリスト氏は、スカリーから学んだ、或は、再確認をしたと云うのである。


2011年9月6日火曜日

スカリーは間違っていたのか?(前編)

「虚」中の「実」は、「虚」であるのか、「実」であるのか?


そもそもそれは、「虚」であったのか?

エヴァンジェリスト氏は自問する。スカリーのことである。氏は、意味深に云っていたのだ、「スカリーを忘れるな」と(スティーブ・ジョブズ辞任........「スカリーを忘れるな」)。

スカリ−といっても「Xファイル」の女性FBI捜査官ダナ・スカリーのころではない。ジョン・スカリーのことである。

ご存じかと思うが、ジョン・スカリーは、かつてのApple(当時は、Apple Computer)のCEOである。スティーブ・ジョブズに請われてAppleに来たのである(史上最大のヘッドハンティングとも云われた)。

ジョン・スカリーは、ペプシ・コーラの社長であった(ペプシコの、ではなく、ペプシコの子会社であるペプシ・コーラの、である)。ペプシ・コーラで、ジョン・スカリーは、当時、コカコーラを抜いてマーケット・シェアのトップをとったことで有名である。

スティーブ・ジョブズは、ジョン・スカリーのそのマーケティングの手腕をかって、Appleに誘ったのである。「一生、砂糖水を売っているつもりか」という有名な言葉で。

Apple移籍後、スティーブ・ジョブズとジョン・スカリーとは「ダイナミック・デュオ」として蜜月時代を過ごす時期もあったが、二人は相離反し、スティーブ・ジョブズはAppleを追われることになったことは周知の通りである。

しかし、それから8年後、ジョン・スカリー自身が経営不振からAppleを追われることになり、その後、何人かのCEOがAppleの立直しを図ったが実らず、スティーブ・ジョブズがAppleに戻り、iMacに始る今のAppleの大成功を実現したことは語るまでもなかろう。

問題は、現在のAppleの状態から、スティーブ・ジョブズが正しく、スティーブ・ジョブズを追い出したジョン・スカリーが間違っていたと見なされることである........とエヴァンジェリスト氏は云う。

ジョン・スカリー自身がそういった主旨の発言をインタビューでしているのである。

しかし、果して、ジョン・スカリーは本当に間違っていたのか?

2011年8月25日木曜日

スティーブ・ジョブズ辞任........「スカリーを忘れるな」

「ノー・コメントだ。ノー・コメント、何も訊くな」

エヴァンジェリスト氏の表情は固い。

スティーブ・ジョブズがAppleのCEOを辞任をしたものの、後任のCEOにエヴァンジェリスト氏が就任しなかったことについて訊こうとしたが、氏は口を閉ざす。

「ティム・クックが後任CEOになったのは、貴方がCEOになることを断ったからですか?フフ.....」

皮肉混じりに訊いてみた。

「スティーブから電話かメールがあったんでしょう?」

3月2日(2011年)、Appleの新iPad(iPad2)の発表プレゼンテーションに、病気療養中のスティーブ・ジョブズが登場した際に、スティーブ・ジョブズの同級生だと云うエヴァンジェリスト氏は、


「ああ、これでまだ当分、CEOをやらなくて済むなあ」


と妄言を吐いたのだ(スティーブ・ジョブズ登場!........エヴァンジェリスト氏、また妄言)。




「石原プロの方を優先したんですか?............石原プロの社長に遠からずなるから、同級生(スティーブ・ジョブズ)の申し出(AppleのCEOへの就任)を断ったんですか?」


これも皮肉で訊いたのだ。


エヴァンジェリスト氏は、及川光博(ミッチー)が壇れいと結婚したことから、水谷豊の新・相棒になるかもと妄想したついでに、AppleのCEOになるかも、というだけではなく、石原プロの新社長になるかも、といった妄言も吐いていたのだ(【緊急特報】尊(ミッチー)が結婚!「いよいよ貴方の出番ですか?」)。戯けている。




しかし、エヴァンジェリスト氏は、私の質問というか皮肉には応えず、更に意味不明なことを云い出した。


「スカリーを忘れるな」
「スカリー?」
「ジョン・スカリーだ」
「ジョン・スカリーって、あの?」
「ジョン自身、最近、自虐的過ぎるようだが.......」


エヴァンジェリスト氏が何を云いたいのか、よく分らないが、「ノー・コメント」と云っていた割に、何かを語り出す様子であった.........

2011年8月23日火曜日

「世界初のカーナビを作った」のではない人

初めて田上(たがみ)勝俊さんを見た時、これはただ者ではない、とエヴァンジェリスト氏は思ったそうだ。

NHK BSプレミアムの「らいじんぐ産」の「カーナビ」編で見たのである。

取材スタッフは、世界初のカーナビを作った人のインタビューに向かい、目指す人物は普通の民家から出てきたが、その人(田上勝俊さん)の目は普通の人間のものではなかった。眼光の鋭さは恐怖さえ感じさせるものであった。

田上勝俊さんは、「カーナビを作ったのではない」と云う。田上勝俊さんが、本田技術研究所で世界で初めて作った「カーナビ」が、「カーナビゲーション」ではなく、「エレクトロ・ジャイロケータ」という名前であったから、ではない。ジャイロ技術を使ったものであり、現在のカーナビのようにGPSを使ったものではないから、ではない。

田上勝俊さんは、「プログラムド・ドライビング」を実現しようとしたのだ。「自動運転」である。クルマに乗車して目的地を指定すれば、後はクルマが自動的にそこまで連れて行ってくれるというシステムを開発しようとしたのである。

「プログラムド・ドライビング」の一要素として、「コース誘導」があったのである。つまり、今で云う「カーナビ」である。それは壮大な目標を達成する為に必要な一要素に過ぎなかったのだ。

しかし、「革新」はこうして生まれるのであろう。小さな目標、目先の目標を目指していては、「革新」は生まれないのだ。「思想」がなくてはいけないのだ

「自動運転」という「思想」、「大志」があり、その実現を目指すことで、必ずしもそれ自体は直ぐに実現せずとも、その結果として(副産物として)「革新」(カーナビ)が生まれるのだ。

田上勝俊さんにとって、「カーナビ」はあくまで「副産物」であり(大変な副産物ではあるが)、大いなる目標への過程に過ぎず、「目指すもの」は「未完成」であったのであろう。ミスター・シューベルトがいつも云うように。

ヒトは「思想」を持たなければならない。「思想」なくしてビジネスの真の成功はない。

貴方は、貴方のビジネスで何をしたいのか?.............私たちは自身にそう問うべきである。

「思想」を持つであろう田上勝俊さんは、実は「ASIMO(アシモ)」の生みの親でもあるらしい。エヴァンジェリスト氏は、田上勝俊さんが普通の人ではないと思い、調べて、そう知ったそうである。

2011年8月22日月曜日

スーパーホテル:大垣で一番いいホテル

大垣(岐阜県)で一番いいホテルは、スーパーホテルだそうだ。

昨日(2011年8月21日)、TBSの「がっちりマンデー!!」で取り上げられていたホテルである。その大垣駅前店である。

ホテルの良し悪しは何を基準にするかにもよるので、一概にどのホテルが一番とは云えないが、エヴァンジェリスト氏によると、大垣で一番いいホテルは、スーパーホテルなんだそうだ。エヴァンジェリスト氏基準で、ということだ。

妄言ばかりのエヴァンジェリスト氏ではあるが、やはり「プロの旅人」で、年中、日本全国を出張しているので、ホテルに関しては一家言持っていることは確かである。

氏は、大垣に泊るときは必ず大垣駅近くにある「スーパーホテル大垣駅前」に泊るそうである。


「スーパーホテル大垣駅前」に泊るようになる前、氏は大垣宿泊にはかなり苦労していたらしい。

差し障りがあるので、どのホテルとは云えないが(私は氏から実名を聞いてはいるが)、幾つか泊ったホテルはいずれも満足のいくものではなく、二度泊ったホテルはなかったそうだ。

しかし、大垣にもお客様があり、泊らざるを得ない時もある。さて、困った.........


ネットで検索すると、「スーパーホテル大垣駅前」があった。

「スーパーホテル」の存在は知らなくはなかった。各地で目にしたことがあったのである。黄色地に青色で「スーパーホテル」と書かれたアノ看板である。「4980円」とも書いてあった。

「4980円」は安い。しかし、あの原色の看板で、その値段というのは、何だか「安かろう悪かろう」ではなくとも「安かろう安かろう」ではないかとしか思えず、自身が宿泊するという発想は全くなかった。

しかし、大垣にはいいホテルはないのである(勿論、エヴァンジェリスト氏にとって、である)。そこで、思い切って、「スーパーホテル大垣駅前」を予約したのである。

冒険であった。安いから失敗してもいいか、というとそうではない。安くとも嫌なホテルはやはり嫌である。

ところが、氏の心配は杞憂であった。それどころか、いい意味で「期待」外れであった。

スーパーホテル大垣駅前」は素晴らしいホテルであった。「安かろう良かろう」なホテルであった。

何故、安いのかは直ぐに分った。「がっちりマンデー!!」で紹介されていた通り、カットできるところはカットしているのである。従業員数、チェックイン/チェックアウトのシステム等である。部屋に電話がないのは、携帯時代の今、不思議ではないが、どうやらこのような時代になる前からそうしていたらしい。結果論にはなるが、先見の明があったということになろう。

しかし、部屋の広さ、ベッドの大きさ、朝食付(一部自動販売機飲料無料)、ネットの完備等、カットしてはならないところはカットせず、むしろもっと「格上」のホテル以上に装備しているのである。

そして、より、「スーパーホテル大垣駅前」の従業員が素晴らしかった。美人であったからではなく(実際、美人であった)、笑顔や諸々の隙のない、しかし、肩肘張らない自然な対応振りが素晴らしかった

その後、幾度も「スーパーホテル大垣駅前」に泊ることになったが、「エヴァンジェリスト氏様ですね」と名前さえ覚えてくれたのである。

シティ・ホテルの従業員の対応は勿論いい(但し、シティ・ホテルでもなっていないホテルもある目配り..........たまには、プロの旅人らしく)、しかし、シティ・ホテルでないと従業員がいい対応をとれないというものではないのである。

シティ・ホテルは従業員が多いので(その分、宿泊料も高いが)、入口にドアマンがいたり、ポーターがいたりする。ビジネス・ホテルはそうはいかない。フロントマンがいるだけである(エヴァンジェリスト氏は、元々、ドアマンもポーターも不要という人だが)。

しかし、お客様を笑顔で迎え、お客様が何を欲しているか、まさに「目配り」することは、シティ・ホテル、ビジネス・ホテルの別なくできることであるし、すべきことなのである

それが、シティ・ホテル以上に、他のビジネス・ホテル以上にできるのが「スーパーホテル」なのである。

そして、それなのに、安い、のである。これで泊らない手はない。

エヴァンジェリスト氏は、すっかり「スーパーホテル」ファンになってしまったのだ。

問題は、「スーパーホテル」の良さを多くの人が知り、予約がとり辛くなっていることだ。「がっちりマンデー!!」で取り上げられたことは、とてもいいことだが、これで更に予約がとり辛くなってしまうであろう。

2011年8月5日金曜日

キリンがガラナを本格的に販売?….ブラジルのスキンカリオール社を買収

「キリンがようやくその気になったか、ウムウム」

それは深読みすぎると注意申し上げたが、エヴァンジェリスト氏は聞く耳を持たない。

キリンホールディングスが、ブラジルの大手酒類・飲料メーカーであるスキンカリオール社を買収したようだ。
そのことを知ったエヴァンジェリストの言葉であった。
氏は、キリンが再度、ガラナの販売を手がけると思っているのだ。ガラナと云えば、ブラジルだからだ。
植物のガラナはアマゾン流域が原産で、飲み物のガラナはブラジルの代表的な飲料であるらしい。
スキンカリオール社も勿論、ガラナを販売してるようだ(GUARANÁ SCHIN)。日本で輸入している業者もあるようだ。
エヴァンジェリスト氏によると、一口にガラナと云っても、北海道で売られているそれと九州で飲むダイヤモンドガラナ(製造しているのは、兵庫県西宮市の株式会社布引礦泉所であるが)とでは、別の飲料らしい[「道民の皆さん、ごめんなさい」(1).....一番美味しい「ガラナ」は]。
キリンは既に、北海道限定でガラナを販売しているが(そして、エヴァンジェリスト氏はそのガラナを飲んだことはないが、以前、キリンメッツガラナとして全国販売していたものは飲んだことはある)、氏の望むのはダイヤモンドガラナ系のものなのだ。
ダイヤモンドガラナは東京でも飲めないことはないらしいが、そう簡単に手に入る(飲める)ものではない。
キリンがガラナを(ダイヤモンドガラナ系のガラナを)本格的に販売すると、氏の望むガラナを普通に飲めるようになるのだ。
GUARANÁ SCHINは、写真で見る限り、確かにダイヤモンドガラナ系の色をしている。
しかし、スキンカリオール社を買収したといっても、だからと云ってGUARANÁ SCHINを日本で販売するとは限らない。そんなことは何も発表していないし、買収したばかりで、まだ個々の商品戦略を練ってはいないであろう。
なのに、エヴァンジェリスト氏は、キリンがGUARANÁ SCHINを販売する、もしくは、GUARANÁ SCHINを製造・販売するスキンカリオール社の協力を得て、ダイヤモンドガラナ系のガラナを日本で販売すると思い込んでいるのだ。
いや、キリンがスキンカリオール社を買収したのは、ガラナの為だとさえ思っているようなのだ。キリンがGUARANÁ SCHINを、もしくは、GUARANÁ SCHINを元にダイヤモンドガラナ系のガラナを日本で製造・販売する可能性を否定しはしないが……………
「問題はパッケージだな」
こちらの心配を他所に、氏の心はもっと先に行っている。

2011年6月7日火曜日

新ライバルは、小栗旬???..........「まつちカッパ」

時代はカッパ(河童)のようだ。

エヴァンジェリスト氏が、カッパ、かっぱ、河童、と五月蝿いのには辟易としてきたが(だったら、このBlogにそのことを書かなければいいのだが、そこはそれ大人の事情というものがあるのだ)、どうやらエヴァンジェリスト氏には時代の先を読む眼というものがあるようだ。

あの人気俳優が河童になるというのだ。


荒川アンダー ザ ブリッジ」という漫画(中村光・作)が、この7月にTBS系でドラマ化され、来年(2012年)の2月には映画化される。


そのドラマ、映画の中であの人気俳優が河童に扮するというのだ。


実際のところ「河童」は、荒川河川敷に住むホームレスを仕切る「村長」で、河童の着ぐるみを着ただけの普通の人間に過ぎず、そのことはバレバレなのに、あくまで自分は河童であると主張するのだという。


何だか、エヴァンジェリスト氏に似ているではないか!?どう見たって(皆さんは、氏を見たことがない方もあるかもしれないが)、氏はただの人間だ。ただの人間なのに、自分のことを「エヴァンジェリスト」(つまり、伝道師=神の使い)と称するのだから。


「村長」はまた、河川敷に新しい住人が来ると、見た目の雰囲気やら何やらから、適当としか思えない名前を付けるのだという。ダカラムスメモ氏だとか「うぬぼれ営業」氏、ミスター・シューベルトといった風に、周りの人間にクダラナイ名前を付けるエヴァンジェリスト氏に似ているではないか。


荒川アンダー ザ ブリッジ」がドラマ化、映画化されると知った時、「村長」役はひょっとしてエヴァンジェリスト氏になるのではないか、と思った。虚構(フィクション)と知りながらも、「村長」はエヴァンジェリスト氏そのものではないかとさえ思った。


そこで氏に糾した、「『村長』は貴方がやる(演じる)のか?」


「ふん、ワシはそんなに暇ではない!あれは、シュンに譲ってやった。タカもやりたいとは云ってきたがな」
「シュン?タカ?」
「オグリだ」
「オグリキャップ?」
「ば、ば、馬鹿者!小栗旬だ。『村長』は河童であって馬ではない!」
「あ、なるほど。で、タカは?」
「孝之だ。山田孝之だ。河童は一匹だから、タカには『星』をやらせることにした」
「『星』?」
「五月蝿い奴だ。『星』が分らなければ、『荒川アンダー ザ ブリッジ』を見ろ」


氏にそんな配役を決める程の力があるとは思えなかったが、発表された配役は確かに、「河童」に小栗旬、「星」に山田孝之となっている。


エヴァンジェリスト氏は、渡さん(渡哲也)の後の石原プロの社長にまだ就任はしていないが、芸能界に対して私たちの想像を超えた何らかの力があるのであろうか?氏を知る私には、とても氏にそんな力があるとは思えないが..........


「シュンが、ドラマ、映画を成功させたいのなら、松山に行かせて、『まつちカッパ』とコラボさせてもいいかもしれんなあ」
「...........」
「内田裕也のタートル・ロックよりも、『まつちカッパ』のライバルにはシュンの方がいいかもしれんな。『まつちかタウン」の集客にはシュンだな
「..........」
「オサム(向井理)も一緒に呼んで、トリプル・コラボもいいなあ」


エヴァンジェリスト氏の妄言はますます加速する。「河童」時代到来を読んだ氏に先見の明があることは認めざるを得ないが...........

2011年6月6日月曜日

「向井理を使え!?」………『まつちカッパ』認知度向上プラン(後編)

「で、結局、何故、向井理を『まつちカッパ」の関係で使うんですか?」
「向井理と云えば、ゲゲゲだろう」
「そりゃそうですが……」
「水木しげる、じゃ」
「………?」
「水木しげる、と云えば、『河童の三平』じゃ」
「なるほど!」
「向井理には、また片手になってもらう。つまり、また水木しげるに扮してもらうんだ。オサムも『夢の扉+』で声だけ出しているくらいなら(ナレーションのことらしい)、愛媛に、松山に姿を見せろ」
「そうして?」
「まつちかタウンの『うるおいの泉』の淵に立ち、呟く」
「呟く?」
「まつちカッパとやら、オマエ、三平だろう?ワシは、しばらく三平に会っていないのだ、と」


「何だか、ちょっと強引では?…………昔の新日本プロレスで、スーパー・ストロングマシーンに対して、藤波が『お前、平田だろ』って云った事件っぽいところもあるし」


「五月蝿い!何なら、そこに内田裕也を登場させてもいい。『ヘーイ!俺は、カッパだが、女房はキリンだぜ、水木の先輩、よろしく、ロックンロール』と片膝ついて云わせればいいんだ。アイツも起訴猶予になったことだしな(JALのスチュワーデス=今のCAに復縁を迫り、強要未遂と住居侵入の疑いで逮捕されたものの起訴猶予になったことらしい)

ああ、もう滅茶苦茶だ。こんな場面をCMとして作ってもいいし、ゲリラ・パフォーマンスとしてもいい、と云う。

本当に滅茶苦茶だ。しかし、しかしだ、確かに、何にせよ、まつちかタウンに向井理が現れたら、『まつちかタウン』、『まつちカッパ』の認知度向上は間違いないであろう。


内田裕也がまつちかタウンに来れば、良くも悪くも評判にはなる。

問題は、誰が向井理を呼べるのかだ。誰が内田裕也を(そして、できれば樹木希林を)呼べるのかだ。

向井理ではなく、まだまだお元気な水木しげる先生ご本人をキャスティングしてもいいとは思うが…………


「『まつちカッパ』と向井理とで、『KaPParadaise Kiss』(カッパラダイス・キス)という映画を作ってもいいかもしれんな。蜷川実花を呼んで、『まつちカッパ』と向井理のツーショットの写真集を撮らせてもいい」


こちらの心配をよそに、エヴァンジェリスト氏の妄想は止らない、止められない。




2011年6月5日日曜日

「向井理を使え!?」………『まつちカッパ』認知度向上プラン(前編)

またまた、エヴァンジェリスト氏の妄言である。

またしても、何故か、四国唯一の地下街である「まつちかタウン」松山市駅前地下街)の「うるおいの泉」に住みついているという「まつちカッパ」のことを気にしての言葉である

「オサムを使え」
「オサム?」
「そう、理だ。向井理だ」
「まつちかタウンの専務が向井さんだからですか?まさか、向井理って向井専務の…….そう云えば、…確かに向井専務の弟はイケメンと聞いてますし…..」
「甘い!」
「と云われても….」
「向井理と云えば、ゲゲゲだろう」
「まあ、少し前のことになりますが、確かに…でも、向井理はカッパでは…
「当り前だ!そんなことを云ったら、ダブル・リバーさんに怒られる」
「ダブル・リバーさん?」
「そんなこと気にしなくていい」
「と云われても….貴方が、聞いたことのない名前を出すから……」
「向井理のファンじゃよ」
「で、結局、何故、向井理を『まつちカッパ』の関係で使うんですか?」


2011年5月20日金曜日

「まつちカッパ」のライバルに内田裕也???

「内田裕也を使えばいいんだよ、ライバル・キャラとしてね」

エヴァンジェリスト氏が、また妄言である。

「『まつちカッパ』のライバル、タートル・ロックとしてね」

松山の地下街「まつちかタウン」のご当地キャラクターである「まつちカッパ」のライバルの河童にしては?、ということのようだ。

「まつちカッパ」は、松山の、というか、愛媛県の、というか、四国唯一の地下街である「まつちかタウン」の「うるおいの泉」に住みついているという設定である。

「まつちかタウン」活性化の為に創られた、いや、発見されたキャラクターのようだ。

そのライバルに何故、内田裕也なのか?

どうやらエヴァンジェリスト氏は、2011年5月26日号の週刊文春の内田裕也に関する記事『71歳電撃逮捕! 内田裕也 JALスッチー(50)と「愛欲17カ月」』を見て発想したようだ。

内田裕也の被害者のお嬢さんが内田裕也に会った(母親から紹介された)時に、内田裕也のことを「河童オヤジ」と思ったということが書かれており、そこから思いついたようなのだ。

やや、というよりも、かなり強引な発想(妄想)である。

しかし、エヴァンジェリスト氏は何故、「まつちカッパ」のことを、「まつちかタウン」のことを気にするのか?

また、「まつちかタウン」は何故、カッパをイメージ・キャラクターとしたのか?

カッパといえば、遠野ではないか?いや、遠野の方は「河童」であろうか。神秘的な遠野のかっぱは、「河童」と漢字の方が相応しい気がする。

NHKの朝ドラ「どんど晴れ」でも取り上げられたように遠野といえば「河童」、カッパ淵である。

で、何故、松山で「カッパ」なのか?「まつちかタウン」に「泉」があるからであろうが…….

エヴァンジェリスト氏は、諸般の事情でこのところ松山に出張していないはずである。それなのに何故、今、「まつちかタウン」のことを気にした発言をするのか?

石原プロの一件でもお判りのように、氏の考えていること、氏の言動は意味不明なものが多い。詮索したところで、真の事情は語ってくれまい。

以前にも、エヴァンジェリスト氏は、「まつちカッパ」でキャンペーン活動をする「まつちかタウン」(松山市駅前地下街)の向井専務について、「専務がカッパのぬいぐるみでも着てテレビも含め、あちこちに出没すればいいんだ」とも云っており、ずっと「まつちかタウン」のことを気にはしていたのであろう。

今度は、向井専務よりももっと強烈なキャラクター(内田裕也)を思いついたのだ。内田裕也は今、逮捕されているので、キャラクターとして使うとしても、もう少ししてホトボリが冷めてからのことであろうが。


タートル・ロックは、ひねくれキャラの「まつちカッパ」に対して云うかもしれない、「ひねくれれんじゃねえ!ひねくれんなら、もっと徹底的にひねくれろ!そうしないと、仕分けちゃうぞ、ロックンロール」と。

内田裕也がライバルのタートル・ロックになると知ったら、まつちカッパ (matsuchikappa) はどう呟く(Twit)するであろうか?