2011年10月8日土曜日

スティーブに先見性はなかった.....

「スティーブに先見性はなかった.....」

エヴァンジェリスト氏が、ついにスティーブ・ジョブズについて口を開いた。

同級生であったスティーブ・ジョブズに先立たれ、どういう気持ちでいるのかと気になっていたのだ。

因に、「同級生」というのは、エヴァンジェリスト氏の表現である。同学年という意味らしい。しかも、日本の学年に換算してである。エヴァンジェリスト氏は1954年生まれ。スティーブ・ジョブズは、1955年の2月生まれ(所謂、早生まれである)。エヴァンジェリスト氏とスティーブ・ジョブズが本当に同じクラスになったことがあるのか(文字通りの同級生であったのか)は、知らない。

「スティーブに先見性はなかった.....」

繰返した。悲嘆にくれているのかと思ったら、批判的言辞か.........

「そう、スティーブに先見性はなかった.....」

くどい!....しかし、それで分った。エヴァンジェリスト氏の気持ちが分った。

表情はいつもと変らず、何を考えているのか読めなかったが、同じことを三度云うところから、氏の動揺を私は読んだ。

しかし、あれだけ先見性があったと云われるスティーブ・ジョブズのことを先見性がなかったという真意が分らない。Apple社が出したコメントでも「先見の明があった」と云われているのである

「スティーブに先見性はなかった。彼は未来を創造したのだ。未来を見透したのではなく、未来を予測したのではなく、未来を創造したのだ」

アラン・ケイか!

アラン・ケイは云ったのだ、「未来を予測する最良の方法は、未来を創造することだ」と。有名な言葉である。

周知のことかと思うが、アラン・ケイは、Macintoshの源流とも云えるXeroxのAltoの開発に携わり、その後に、Appleのフェローにもなった「パーソナル・コンピューターの父」とも云われる人物である(美しくなければいけない(後編))。パーソナル・コンピューターという概念・言葉を考えたとも云われる。「Dynabook」なる概念・構想(云うまでもなかろうが、東芝のノート・パソコンのことではない)を提唱し、その実現がiPadと捉えることもできるのだ。

「スティーブは、日常生活にコンピューターのある未来社会を予見したのではない。音楽を、しかも大量の曲をウチの外で聞ける未来生活が来ると読んだのではない。音楽をレコード店に買いに行かなくてもいい時代が来ると予想したのではない。ウチの中でも、外を歩きながらでも、通勤電車の中でも、ゴルフ場でもどこでも知りたい情報を得られるようになる場面を想像したのではない」
「................」
「スティーブは、Macintoshで、iPod、iTunes、iPhone、iPadで、そんな社会を、そんな生活を、そんな時代を、そんな場面を創ったのである。そんな社会を、そんな生活を、そんな時代を、そんな場面を創りたくなり、それを実現したのだ」
「................」
「スティーブに先見性があった訳ではない。スティーブは、未来を創造したのだ。そして、我々はスティーブが創った未来を享受しているのだ」

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