クソーコーノ氏は天才である。しかし、困った人である。
氏は「システム」を作る人である。しかも売れる「システム」を作る人である。氏が作る「システム」は、人に優しい。使う人のことをとてもよく考えている。だから、使い易く、だから、売れるのである。
氏が作る「システム」は、人に優しい。しかし、氏は人には優しくない。
氏は、自身のことを「天使」だと云う。自分のメール・アドレスを「天使」にしている。自分のメール・アドレスを「まごころ」ナントカとしているミスター・チョーテイ並みである。そう云えば,ミスター・チョーテイの異名は、ワカ・クソーコーノである。
云うまでもなく、自分に「まごころ」があるという人間に「まごころ」はない。自分のことを「天使」という人間に天使はいない。
クソーコーノ氏は、人を追いつめる。2時間でも3時間でも、4時間でも5時間でも問い詰め続ける。
氏の質問は、「右」と答えても、「左」と答えても、正解にはならない。氏は、ずるいのだ。氏の質問に問題があるのだ。
質問自体がおかしいのだ。態とである。なんとなく当然のように思えることを前提として質問するのである。
しかし、「なんとなく当然のように思えること」は、必ずしも「当然」ではないのである。
これは、最近のマスコミでもよくあることである。確信犯であるクソーコーノ氏と異なり、マスコミは、必ずしも「当然」ではないことを「当然」と、自分達自身思っているのだろうが。
例えば、「説明責任を果していると思いますか?」なんて質問がよく為されている。一般市民は、この質問に対して「果している」とか「果していない」とか答えることになる。
これは罠である。
「説明責任を果していると思いますか?」という質問は、「説明責任がある」ということが前提になっているのである。
而して、本当に「説明責任」はあるのか?ケースにもよるであろうが、総てのケースで絶対的に「説明責任がある」とは限らない。
「説明責任を果していると思いますか?」という質問に対して、「果している」という答も「果していない」という答も正解ではない。むしろ、いつの間にか、当該の人間には「説明責任がある」ということが脳裏に刷り込まれるのである。
質問自体を疑ってかかるべきなのだ。
クソーコーノ氏は、この論理を使って来るのである。氏の「手」に乗ってはならない。氏の質問に対しては、先ず、その質問そのものの疑問を呈すればいい。そうすれば、氏は、結構、メロメロ,ヨロヨロになる。可愛いくらいに。
クソーコーノ氏はテンサイである。いや、天災以上の存在だ。氏に質問を浴びせられたら、二度と立ち上がれない程、打ちのめされる。
だから、一般市民は氏になかなか近寄らない。しかし、氏を避けてはならない。
氏は人々のことを思い、問うているのである。氏の質問には必ずしも正しいとは限らないことが前提となっていることに気付いて欲しいのである。
「常識的」なことは必ずしも「常識」ではないことに気付いて欲しいのである。
生きていく上でも、ビジネスでも、このことが(俗な言い方をすれば、常識に囚われないことが)大事であることを知らしめたいのである。企画の第1歩は、企画の前提を崩すことであるとも云われる。
氏が作る「システム」が使い易く、売れるのは、氏の発想が常識に囚われていないからである。人々は自身が気付かない内に、自身で「これは無理」と自身の周りに枠(制約)を作ってしまう。枠の範囲での発想では、いい「システム」は作れない。
「枠」に囚われないクソーコーノ氏が作る「システム」は、人に優しい。そして、一見、氏は人には優しくない。それは間違いない。それは氏がシャイだからであり、人々に気付いて欲しいという思いが、「強さ」になって出てしまうからである。
而して、実態は.........人々が「枠」に囚われないことを願うクソーコーノ氏ほど、人に優しい人はいない。
但し、クソーコーノ氏は、ヨーロッパ人ではない!?
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