「君たちは、何を怖れているのか?君たちは何故、もっと主張しないのか?」
エヴァンジェリスト氏が吠えている。
「君たちは、何かする前に何故、あきらめるのだ。あの時、世間は、まさかそんなものが実現するとは思っていなかったのだ」
虚空を見つめながら、エヴァンジェリスト氏は続ける。
「アリは……モハメッド・アリは、カシアス・クレイ時代からスーパー・スターだった。世界のスーパー・スターだった。而して、猪木もスーパー・スターではあったが、日本のスーパー・スターに過ぎなかった。海外の人たちは、猪木のことを殆ど知らなかった。アリ自身もそうであった。知らなかったからこそ、アリは猪木の挑戦を受けることにしたのだろう。簡単な金儲けだと思って」
「猪木Xアリ」戦のことを云っているようだ。
「猪木がアリに挑戦状、いや応戦状を叩き付けた時、私は興奮した。世間は猪木さんを馬鹿にした。アリに挑戦なんて叶う訳がないと云った。しかし、私は云った。『猪木さんは、挑戦したのではない、アリが先ず、自分と戦おうという東洋人はいないのか、と云ったのだ』と。アリは、例のビッグ・マウスを叩いたのだ」
いつの間にか、「猪木」から「猪木さん」に変っている。
「猪木さんは、アリの挑戦に応えたのだ。だからアリに手渡されたのは挑戦状ではなく応戦状であったのだ。しかし、誰も私の云うことなんか聞かない。プロレス・マスコミやプロレス・ファン(いや猪木ファン)は別として、マスコミも人々も猪木さんの売名行為だと云った」
当時は、プロレス・マスコミといっても、雑誌はゴング(月刊)とプロレス&ボクシング(月刊)しかなかったはずだ。新聞は、プロレスを熱心に取り上げていたのは、東京スポーツ(東京以外の地では、名古屋スポーツ、大阪スポーツ、九州スポーツ)であった。
「対戦が決ってからも、本当に実現するか疑いの目で見られ、実現するとしても、どうせ八百長だろう、としか思われなかった。しかし、ついにその日は来たのだ。1976年6月26日だ」
そうか、今日は6月26日だったのだ。だから、エヴァンジェリスト氏は興奮しているのか!
「そして、その戦いは茶番と酷評されたことは、皆、知っているだろう。その日、上井草の私の下宿に(住所で云うと下石神井だが、最寄駅は上井草なのだ)、友たちが集り、共に、昼間から(試合は午後、昼下がりであったのだ)テレビを凝視した」
テレビ中継したのは勿論、猪木の新日本プロレスの中継をしていたNET(日本教育テレビ=今のテレビ朝日)だ。
「15ラウンドの試合が終り、私も含め、皆、脱力感に襲われた。多分、私の下宿にいた皆だけでなく、日本中の、そして世界中の視聴者、試合会場の観客が皆、そうであったであろう。世間は,猪木さんのことを『寝てばかりいた』と非難した。そして、私は、『アリは立ってばかりいた』と非難したが、誰も耳を貸さなかった」
世間の固定観念ってそんなものである。視点を変えて見れば、確かにエヴァンジェリスト氏の云う通り、『アリは立ってばかりいた』ことになる。アリはボクサーだから、ずっと立っていてもおかしくはないのであろうが、猪木はプロレスラーなのだから、寝技もあるので、猪木が寝ていてもおかしくはないのだ。エヴァンジェリスト氏はそう云いたかったのであろう。
「周知の通り、茶番だ、八百長だをののしられ、猪木さんは莫大な借財を背負うことになる。しかし、だ。しかし、このアリとの戦いにより、猪木さんは世界中に認知され、その後、世界のスーパー・スターになっていくのだ。アリ戦がなければ、カストロと親しくなることもなかったであろうし、イラクで人質になった在留邦人の解放をフセインに認めさせることもなかったであろう」
猪木さんが、イラクの在留邦人の人質解放をしたことを知らない人も結構いるらしい。時の流れはそういうものなのか。
「そして、今日(こんにち)、『猪木Xアリ』戦の評価は違ったものになっているのだ。真剣勝負だったと高く評価されるようになっているのだ。戦いの後、アリは猪木さんに蹴られ続けた脚が血栓症になり、入院までしたことは朝日新聞でも取り上げていたが、戦いの凄まじさの証左としてそのことを幾ら云っても誰も聞いてはくれなかった。しかし、最近でも読賣新聞が『猪木Xアリ』戦を評価する記事を掲載したとも聞く」
そもそも試合のルールがひどいもので、猪木には寝て相手を蹴るぐらいの今年かできなかったのだ、とエヴァンジェリスト氏から聞いたことがある。アリは、遊び半分で(エキシビション・マッチでもして小遣い稼ぎでもするつもりで)来日してみたら、猪木って「セメント・ボーイ」だと知り、自分たちの云うルールを飲まないなら試合をキャンセルして帰国する、と試合開始直前まで猪木陣営を脅したらしい。「その辺の詳しいことは、新間さん(新間寿=猪木のマネージャー)から聞いてくれ」と云われたこともあったが、残念ながら私は新間さんとは面識がなく、「その辺」の事情を聞くことはなかったが。
「『猪木Xアリ』戦で猪木さんは本当にビッグな存在になったのだ。しかし、当初誰も、『猪木Xアリ』戦が実現するとは思っていなかったのだ」
そのことはもう十分分っている。くどい人だ。
「君たちは、何を怖れているのか?君たちは何故、もっと主張しないのか?」
エヴァンジェリスト氏がまた吠える。
「君たちは、何かする前に何故、あきらめるのだ。猪木さんだって、若い頃はあったのだ。最初からメイン・イベンターではなかったのだ。ましてや、世界のアリと戦うようになるとはご自身も思っていなかったはずだ」
そりゃそうだろう。猪木がグリーン・ボーイであった頃、猪木より1歳年上のアリは猪木よりは早く世に出てはいたが、まだスーパー・スターではなかったのだから。
「猪木さんがまだ若手レスラーであった頃、バトルロイヤルに出ていたのを覚えている。その時は、まだそれが『猪木』という存在とは知らなかったが、大勢のレスラーの中、一人、日本人離れしたスタイルのいい青年、というよりも少年に近いレスラーがいたことを覚えている。そのことを記憶しているくらいであったから、当時からやはり何か『持っていた』のではろうが、当時はやはりただの若手レスラーに過ぎなかったのだ」
猪木がバトルロイヤルに出ていたって、力道山時代であろうか、豊登時代であろうか?
「猪木さんは最初から特別な存在ではなかったのだ。しかし、猪木さんは何も怖れず(本当は怖れていたかもしれないが、それは見せず)、主張し、行動したのだ。だから、アリ戦も実現させたし、ビッグな存在、スーパー・スターになったのだ。然るに、君たちは、何を怖れているのか?君たちは何故、もっと主張しないのか?君たちは、何かする前に何故、あきらめるのだ」
少々五月蝿くなってきた。
「猪木を超えろ!」
いや、そうは云っても…….
「不可能と思うな!猪木を超えろ!」