2012年1月25日水曜日

【石原プロ】たかがお年玉、されどお年玉?

週刊文春(2012年1月26日号)を投げ出して、「ふーうッ」と息を吐き出した。

「お年玉の記事ですね?」
「......」
「ショックですか?アナタともあろう方がご存じなかったのですか?」
「.......」

皮肉に対しても、何も応えない。さすがのエヴァンジェリスト氏もコタエタのかと思った。

週刊文春が、石原プロが今年の新年会からお年玉を配ることを止めたことを書いたのだ。「21世紀の裕次郎」たる徳重聡の伸び悩み等々、石原プロの窮状を暴いたのだ。

「相変らず、君は何も分っていない」

エヴァンジェリスト氏の得意の科白が出た。少しほっとした。冷やかすような言辞を弄しはしたものの、落胆したのではないかと心配していたのだ。

「週刊文春が最初ではない。他の一部メディアでも取り上げていた」

それは知らなかった。では、何故、氏は、週刊文春を見て、「ふーうッ」と息を吐き出したのか?

「君だけでなく、週刊文春も何も分かっていない。梶山季之が生きていたらなあ......」

梶山季之?何を云い出すのか......そうか、梶山季之は小説家になる前、トップ屋として週刊文春の創刊に加わっていたのだ。しかし、梶山季之が生きていたら、とはどういう意味なのか?こんな記事は書かなかったとでも云いたいのであろうか?

「お年玉を配るだけの資金力もなくなった、と本気で思っているのか?!」
「『西武警察』や『大都会』をついにDVD化したり、『黒部の太陽』を44年振りに上映するのも、窮しているからではないですか?」
「お年玉を配るのを止めたからといって鬼の首をとったかのように、窮している、と云うことが気に入らん」

そうか!確かにエヴァンジェリスト氏は、石原プロの行く末を随分前から心配していたのだ小林専務、お疲れ様でした。貴方がいてこその石原プロでした。)。だから、自身が石原プロ入りし、俳優兼プロデューサーになり、次代の石原プロを担っていこうかと思うようになったとも噂されているのであった。

「難しいのは、石原プロとは何だ、とうことなのだ」
「......」
「石原プロとは、それ即ち、石原裕次郎である。石原裕次郎は大スターである。大スターは大スターらしくなくてはならぬ。そこに小林専務がいた。石原プロとは、それ即ち、小林専務でもあった」
「......」
「大スターは、憧れられる存在である。夢見られる存在でなくてはならぬ。大スターが、一般人と同じことをしていてはいけない。お年玉も、十勝のおはぎも、炊き出しも、その具現なのだ」
「,,,,,,」
「しかし、お年玉なんぞ、一つの顕れに過ぎない。それがなくなること自体は、大きな問題ではない。問題は、それが石原プロの方向性の変容を表しているのか、ということだ。小林専務が去り、新たな体制は石原プロのアイデンティティを再構築しようとしているのか、ということだ」
「石原プロが変ることが不満なのですか?」
「変ったっていいんだ。小林専務の石原プロでなくなっても構わない」
「そうですよね。アナタは小林専務が去られたことを惜しむ一方、小林専務のやり方に批判的でもいましたものね」
「問題は、もし、石原プロが変ろうとしているのなら、何になろうとしているのか、ということだ。石原プロは、どのような『プロモーション』になろうとしているのか、なのだ」
「大盤振る舞いはもう止めて、採算の取れる普通のプロダクションになろうとしているんじゃないんですか?」
「バッカもん!石原プロは、石原プロモーションだ、石原プロダクションではない!」
「そんなこと、どうでもいいじゃあないですか』
「君に、石原プロを語る資格はない!」
「面倒臭い人だ」
「成功を欲するなら、面倒臭さを厭うてはならぬ」
「チィッ....」
「舘さんは、分っているのだ。2月24日放送のフジテレビ系2時間ドラマ 『ヤバい検事 矢場健(たけし)~ヤバケンの暴走捜査』の撮影現場に、十勝おはぎを100箱(600個)差し入れしたのだ」
「なあんだ、アナタは結局、小林専務的あり方が好きなんですね」
「君は本当に何も分っていないんだな。事象をその皮相の部分で判断してはいかん。君も、週刊文春も、他のメディアも何も分っていない。しかし、それが世間の現実なのであろう。而して、問題は石原プロはどこに行こうとしているのか、なのだ」
「大袈裟ですね」
「そろそろ、まき子夫人と話さねばならぬかもしれん」


この人(エヴァンジェリスト氏)は一体、何者なのであろうか?

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