(【WWD】青春のハナヱモリ(その2)の続きである)
濡れて光っているように見えたヴィトン君の自慢の長い睫毛は、実際に濡れていたのだ。
しかし、みんながそのことを知るのは、まだもう少し後のことであった。
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そこは.......ヴィトン君が戻って来たのは、「WWD」であった。
間違えないで欲しい。「WWE」ではなく、「WWD」である。
ワカシショー・ブラック氏やケンドー・カシン(石澤常光さん)が財務分析をした米国のプロレス団体「WWE」ではなく(【WWE】プロレス団体を財務分析してみる。......ワカシショー・ブラック氏。、【WWE】ごめんなさい、ケンドー・カシン。いや、石澤常光さん)、「WWD」である。より正確には、「WWDジャパン」であった。
そこは.......ヴィトン君が戻って来たのは、「WWD」であった。
間違えないで欲しい。「WWE」ではなく、「WWD」である。
ワカシショー・ブラック氏やケンドー・カシン(石澤常光さん)が財務分析をした米国のプロレス団体「WWE」ではなく(【WWE】プロレス団体を財務分析してみる。......ワカシショー・ブラック氏。、【WWE】ごめんなさい、ケンドー・カシン。いや、石澤常光さん)、「WWD」である。より正確には、「WWDジャパン」であった。
「WWDジャパン」とは、米国のWWD(Women’s Wear Daily)という世界で最も権威のあるファッション業界紙の日本版である。WWDの社員は、名刺を見せるだけで、どのファンション・ショーにでも入ることができる(と、エヴァンジェリスト氏は教わった)。
ハナヱモリ・グループはこのWWDと提携し、日本版の編集、販売の権利を獲得した。エヴァンジェリスト氏が入社した年(1979年)にその為の会社(フェアチャイルド・モリ出版)を設立し、「WWDジャパン」を創刊することになったのだ。
つまり、驚くことに、エヴァンジェリスト氏は一時的にせよ、ファッション業界に身を置いていたのだ。しかも、あの有名な「WWDジャパン」の創刊時のメンバーであったのだ。初代の営業の一人であったのだ。
今(2012年3月)、NHKの朝ドラ「カーネーション」が評判である。ファッション・デザイナーのコシノ三姉妹の御母堂の一生を描いたもので、この2月まで主役をしていた尾野真千子の演技力等々、魅力満載で、かのモト・ヤミシツチョ-までもが視聴されるようになった名作である。
エヴァンジェリスト氏がファッション業界に身を置いたのは1979年のことなので、コシノ三姉妹の御母堂が74歳で「アヤコ・コシノ」ブランドを立ち上げた1988年にはもう「業界」人ではなかったが、コシノ三姉妹も登場する「カーネーション」をエヴァンジェリスト氏は感慨深く見ているのだ。
「WWDジャパン」社内でも、勿論、「コシノ」の名前は日常的に出ていたのである。
「WWDジャパン」紙は、既に述べた通り権威ある「WWD」紙の日本版であったが、当時(1979年)は立上げの時であり、営業は大変であった。購読者の獲得も、スポンサー(広告主)の獲得も共に大変であった。
新規ビジネスなのだから、当然と云えば当然ではああった。
その新規ビジネスの立上げの一翼を、新人ながらもヴィトン君も担っていたのだ。
そのヴィトン君が、夜遅くなって、雨が降っていた訳でもないのに濡れそぼった様子で帰社して来たのである。
広告営業の先輩であるカリスマ氏が訊いた。
「お前、なんでアノ先生とキョーカイなんかに行ったんだ?」
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