2017年2月23日木曜日

「Oui……present…Oui……present…」【青春の東京日仏学院】



老いた男はうなされていた。

「Oui……present…Oui……present…」

ベッドの中で眠る男は、言葉を繰り返していた。


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20歳過ぎの男は、飯田橋駅で国電を降り、外堀通りを市ヶ谷方面に数分行ったところで右折し、坂を登って行った。

男は、『プロの旅人』氏の若い頃のようにも、エヴァンジェリスト氏の若い頃のようにも見えた。

坂を少し登ると更に右折し、木立の中の白い、瀟洒という言葉が相応しい建物の方に向かって登って行った。

坂を登りきり、左手の建物の中を窓から覗き込むと、男は踵を返し、今登ってきたばかりの坂を今度は下って行った。

男は首を左右に細かく振っていた。何かに怯えているようであった。

そうだ、男は怯えていたのだ。

男が覗き込んだ建物の中には、知っている者は誰もいなかった。教室の中には、男と同じ20歳過ぎの女性たちしかいなかったのだ。

そこは教室であった。東京日仏学院の教室であった。アンスティチュ・フランセ東京が東京日仏学院という名前であった頃のことである。

教室の中の女性たちは皆、どこか品が良く、教室はいい匂いに包まれているであろうと思われが、その男には恐怖でしかなかったのである。

教室には、自分の友人が誰もおらず、自分とは身分が違うであろう女性たちしか見えなかったその瞬間、男は前回の授業を思い出したのだ。

羞恥と恐怖の記憶しかなかった。



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自分とは身分が違うであろう女性たちの中にいても、授業が始まるまでは、怯むところはなかった。

地方出身の貧乏人の小せがれに過ぎなかったが、男が通う大学は、ハイソな女子大学生が多かった。

男が属する文学部文学研究科フランス文学専攻は特に、ハイソな女子大学生が多かった。本来、男女比は、50:50であったが、男は学校に来ないものが多く、男はいつも地元の広島では見かけたことのない女性たちに囲まれていたのだ。

そのような環境にいる内に、貧民ながら、どこか自分もハイソな一員になっていたように思っていたのだ。

しかし、東京日仏学院のその授業の女性たちは、男のそんな思い上がりを打ち砕いたのだ


…..授業開始の時間となり、毛量の多いカイゼル髭の男が教室に入ってきた。フランス人というよりも、何故か、スペイン人みたいな教師だ、と思った。





その時はまだ、胸には授業への期待しかなかった。

『プロの旅人』氏の若い頃のようにも、エヴァンジェリスト氏の若い頃のようにも見える男は、フランス文学を専攻しているとはいえ、フランス語を聞き、喋るトレーニングは一度も受けたことがなかった。

敬愛する遠藤周作のように自分もいつかフランスに留学するのではないかと思い、フランス語を喋ることができるようになる必要があると感じ、大学の同級生の男たち3人と東京日仏学院に通うことにしたのだ。

親に頼み込んで、男の家庭には安いとはいえない授業料を出してもらった。

先ず、選んだ授業は「Dictéeディクテ)」であった。聞き取りである。

カイゼル髭の教師は、出席を取り始めた。アルファベット順のようであった。

まだ自分の番ではないな、と周りを見渡していた。大学で綺麗な女性は見慣れて入るとはいえ(憧れの女性も同じフランス文学専攻にいた)、「いい娘はいないかなあ」、と。

その瞬間であった。

「Monsieur XXXXXX」

という声がした。

カイゼル髭の教師が自分を呼んだのだ。慌てた。

慌てた男は、思わず、

「はい」

と返事した。

その「はい」を聞いたかぐわしい女性たちは、一斉に笑った。ただ笑ったのではない。爆笑であった。

男は真っ赤になった。

カイゼル髭の教師は既に、次の者の名前を呼んでいっていたが、赤面した男は、どうしよう、とばかり思っていた。どうしようもないのに、どうしよう、と思っていた。

そうだ、女性たちは、教師の呼ばれると、ある者は、「Oui」と応え、ある者は「presente」と応えていたのだ。

「Oui」も「presente」も聞こえていたが、自分は、「いい娘はいないかなあ」としか思っていなかった。

フランスでは、授業の点呼に「Oui」とか「presente」と応えるのだ、と知った時には、もう遅かった。自分は「はい!」と日本語で応えてしまったのだ。

女性たちには、「何この人」と思われてしまった。「ハンサムだけど(当時は、まだイケメンという言葉はなかった)、この人、貧乏人ね」と。

どうしたらいいのだ、どうしたらいいのだ、とどうしようもないことを考えている内に、授業は始った。

カイゼル髭の教師は、どうやら、自分がこれから文章を読むから、それを聞け、その後に、当てるからその文章を繰り返せ、と云っているらしかった。

フランス語を聞く訓練を一度も受けたことのないのに、どうして、教師の云っていることが理解できたのかは分からなかったが、なんとなく理解はできていた。さすが、OK牧場大学の文学部文学研究科フランス文学専攻の学生ではあった。

けれども、男は、本当にフランス語を聞く訓練を一度も受けたことはないのだ。普段、大学の授業で聞いているフランス語は、日本人教師のフランス語だ。ネイティヴの発音ではない。

ある助教授は(当時は、准教授とは云っていなかった)、「paritir」を「パルチール」と発音していた。

いくらランス語を聞く訓練を一度も受けたことはないとはいえ、そんな発音はないだろうとは思った。

要は、普段、大学の授業で聞いているフランス語はそんな程度のものであったのだ。

なのに、ここでは(東京日仏学院の「Dictéeディクテ)」の授業では、いきなりネイティヴのフランス語なのだ。

カイゼル髭の教師が読み上げた文章は、テキストがあったとしたら、最初の2-3行しか男には聞き取れなかった。

「当てられたらどうしよう…..」

何も答えられないと、また女性たちの嘲笑を浴びることになる。焦った。そう思うと、既に赤面する程、焦った。

「いや、当てられないのじゃあないか…….いやいや、そんな油断をしていてはいけない。さっき、そんな油断をしているから赤っ恥をかいたのではないか」

と思っていたら、

「Monsieur XXXXXX」

と当てられてしまった。しかし、今度は、

「Oui」

と答えた。

そして、拙い発音でフランス語を発した。

まだ、なんとか聞き取れていると思えていた部分であった。

しかし、聞き取れたと思えていたのは、最初の2-3行なのだ。

あっ、という間に、まさに「あっ」という内に、聞き取れたと思えていた部分の最後まで来てしまった。

「まずい!これ以上は、まずい。何も云えない…」

と思ったら、男のパートはそこまでであった。

脱力した。肩で息をしていた。

授業のその後のことは覚えていない。


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…..これが、前回の授業であったのだ。

羞恥と恐怖の授業であった。

再びここまで(東京日仏学院まで)来るのが怖かった。

しかし、親になけなしの金を出してもらって通うことにしたのだ。逃げ出す訳にはいかない。

友だち(大学の同級生の男たち)も一緒なので、逃げ出す訳にはいかない。

だから、頑張って、上井草から飯田橋まで来たのだ。

しかし、覗いた教室には、友だちは誰もいなかった

その瞬間、恐怖が走った。比喩ではなく、背中を恐怖なるものが走ったのを感じた。

友達がいたところで同じではあったのだ。奴らは、自分よりは、予めフランス語をある程度、聞いたり、喋ったりの経験があったのだ。フランス人の友だちのいる奴もいた。

自分だけなのだ。これまでフランス語を聞く訓練を一度も受けたことのないのは。

また、あの女性たちに嘲笑されるのだ。また、カイゼル髭の教師に「なんだ、こいつは」と思われるのだ。

フランス語を聞いたり、喋ったりできないから習いに来ているのに、フランス語を聞いたり、喋ったりできないと授業もまともに受けられないなんておかしい、とは思ったが、そんな理性よりも恐怖の方がはるかに強かった。

だから、男は窓から教室を覗き込むと、直ぐに踵を返し、今登ってきたばかりの坂を今度は下って行ったのだ。

男は首を左右に細かく振っていた。何かに怯えているよう、なのではなかった。確かに、男は怯えていたのだ。

その後、十数年経つまで、男は東京日仏学院を訪れることはなかった。

親が出してくれた授業料は、たった1回の受講の為だけのものとなったのだ。

十数年後、男は、何食わぬ顔とはこういうものかという顔で東京日仏学院への坂を登っていくようになったが、その内心には、あの時の羞恥と恐怖が渦巻いていた。

しかし、男は、Patrice JULIEN(パトリス・ジュリアン)さんの知合いだから東京日仏学院を訪問するようになったのだ。Patrice JULIENさんは、当時、駐日フランス大使館の「atacché(アタシェ)」から東京日仏学院の副院長になっていた。

男が東京日仏学院を訪れるのは、Denis VASSLLO(ドゥニ・ヴァサロ)さんにも会う為でもあった。Denis VASSLLOさんは、過去にも今にも多分、日本国内唯一の「ミニテル」のサービスである「JITEL」(東京日仏学院の『ミニテル』のサービス)を運営していた人である。





男は、Patrice JULIENさんやDenis VASSLLOさん、そして、FRANCE TelecomのJean-François THOMAS(ジャン=フランソワ・トマ)さんと、東京日仏学院の庭にあるブラッスリーでランチを何食わぬ顔で喰うようになっていた。

しかし、ランチを摂りながらも、かぐわしい女子学生たちが目に入ると、羞恥と恐怖に苛まれるのであった

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老いた男は、そんな夢を見ていたのであろうか。

まだ、

「Oui……present…Oui……present…」

を繰り返していた。

ベッドの中で眠る男は、

「ビエールっ!」

とも叫んだ。


ビエール、そうか、ビエール・トンミーに

『更に修士様は東京日仏学院(現在の「アンスティチュ・フランセ東京」)で「ディクテ」の術を熱心に学ばれたではないですか。英語もフランス語も同じです。聞き取りは正確です。』

と揶揄われたせいのなのかもしれない。







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