「素晴らしいこと」のオンパレードであった「副業」について話をして下さる人の2時間の説明をひたすら聞いたエヴァンジェリスト氏が、ついに口を開いたのであった。
-------------------------------------------------
「申し訳ありません。無理です、私は」
エヴァンジェリスト氏は、「無理」の理由を説明した。
入会費と毎月の商品購入費の負担があるが、自分にはそのお金がとても出せない。
「5月の給料の手取りは8万円だったんです」
エヴァンジェリスト氏は、絞り出すような声でそう云った。
主治医と「話をして下さる人」は絶句した。そして、しばらくして「話をして下さる人」がようやく口を開いた。
「8万円って、主婦のパート代よりも安いではないですか」
これが再雇用者の現実、とエヴァンジェリスト氏は説明した。
「先生に先日、治療費が払えなくなりそうだから、治療を止めなくてはならないかもしれない、と申し上げたのは、決してオーバーに云ったのではないんです。会社の40円のコーヒーも買えなくなったんです。食費も切り詰めて、できれば食事を摂らないようにしているんです。痩せるにはその方がいいかもしれませんしね。先生には申し上げましたが、足底筋膜炎の治療にも行けないでいるんです、お金がないので」
その後、「話をして下さる人」はそれでも少し、勧誘を試みようとしたが、手取り8万円の男をどうにも勧誘する言葉を編み出すことはできなかった。
「話をして下さる人」は、相手がああ云えばこう云う、こう云えばああ云う、訓練が出来ている人のように見えたが、エヴァンジェリスト氏にはどうにもしようがないようなのであった。
エヴァンジェリスト氏は、そこに畳み掛けるように云った。
「できれば、今月(8月)中に死にたいんですよね。今月まで生命保険が有効なんです。それも出来れば、出張中の飛行機事故死がいいんです。事故死の方が保険の支払額大きいですし、飛行機事故死だと、生命保険の支払の他に、航空会社からの慰謝料が女房に入りますからね。それに、死んだら、住宅ローンの支払も免除されますからね。でも、自殺はしませんよ。自殺では住宅ローンは免除されなくなりますから。ああ、それから私が死ぬと、女房に遺族年金が70%程度出るようです。二人で100%より、一人で70%の方が得ですからね」
「まあ、そんなこと仰らずに...」
「話をして下さる人」は、そうとしかいいようがなかった。
……こうして、エヴァンジェリスト氏は、「マルチ」に引っ掛かることすらできなかったのである。涙なしでは語れない話であった。
【おしまい】
0 件のコメント:
コメントを投稿