2017年3月26日日曜日

『沈黙』を、『遠藤周作』を語る【エヴァンジェリスト氏、怒りの全文公開】




エヴァンジェリスト氏から怒りの投稿があった。

「不満である。大いに不満である。

意味不明な(日本語にもなっていない)メールのやり取りであった。こんな世の中でいいのであろうか…….(こんな人たちに『日本』を語ってもらいたくない。まあ、この老人たちは『日本』を語ってはいないのだが)

とは何事だ!『プロの旅人』氏はなーんにも分っちゃいない」

どうやら、このBlogの『全文公開【『水面下』のメール】』に対してご不満であるらしい。

「私とビエールとのやり取りを、どこかの国のご婦人お二人のものと同列に扱って欲しくない。私たちの間には、凡人には計り知れぬ深淵があるのだ」

二人は、ただの助平爺と変態爺としか思えないが……

「仕方があるまい。分らぬのなら、公開するしかないであろう。Blog『プロの旅人』の『「あなたは『教祖』なのか?」【週刊聞醜・緊急質問状】』で明かされたビエールからの問いに対する回答だ」

そう、スコセッシ監督の映画『沈黙』を見て大いく心を動かされたビエール・トンミー氏は、『沈黙』を見てよく分らなかった点について、『フランス文學界の最高峰のOK牧場大学大学院の修士にて遠藤周作の権威はどう考えますか』と呈した質問への回答であった。





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(1)キチジロウは棄教を続けながら何故ロドリゴに付きまとって懺悔を続けるのか。


それは、キチジロウが、遠藤周作、その人自身であるからです。

遠藤周作にとって、キリスト教は自身が選んだものではなく、彼は、幾度もそれを棄てようとしました。しかし、棄て切ることができなかったのです。

キチジロウは、そんな遠藤周作自身を投影した存在であるのです。

ご質問への回答になっていないように思われうかもしれませんが、それが私の回答なのです。



(2)ロドリゴが信者のために棄教したのはカトリックの考えでは正しいのか。


カトリックの教えとは何かに依るでしょう。

雑な言い方をすると、西欧的なカトリックでは、正しくはないでしょう。

では、遠藤周作的には、正しいのか、というと(遠藤周作は、ロドリゴが信者のために棄教したことを正しいと考えているのか、というと)、そうではないしょう。

むしろ、正しくはないことが(「正しい」とは何かにも依りますが)、大事なのです。

ロドリゴが棄教したのは、本当に、信者の為だったのか、信者の為にだけであったのかも問題となります。

ロドリゴも弱者であったのです。ロドリゴもキチジロウも同じく弱者なのです。人間とは弱いものなのです。そんことを遠藤周作は言いたかったのではないかと思っています。



(3)ロドリゴが踏み絵を踏む時、キリストの「踏むがいい。私は踏まれるために生まれて来た」という言葉を聞くけれど、これでは神に従ったので棄教と言えないのではないか。


問題は、それが棄教であるのかないのか、ではないのです

仮にそれが(踏み絵を踏むことが)、踏み絵のその人が「いいよ」と言ったものであっても、踏むことは辛いのです。

自分が愛する人を踏むことは(遠藤周作的には.....愛する母を裏切ることは)、とてもとても辛いことなのです。

しかし、「人」はそれを「踏む」のです。愛する人を裏切ってしまうこともあるのが、人間なのです。

キリスト教的に言えば、それは「原罪」とも言えるでしょう。

そこで、繰り返しになりますが、問題は、それが棄教であるのかないのか、ではないのです。

「踏む」ことは辛いのです。しかし、「神」(母)は言うのです。「踏むことはお前も辛いであろう。そのことは私は分かっている」と。

これは、あるフランス文學界の最高峰のOK牧場大学大学院の修士の論文にも通じるところです。フランソワ・モーリアック論を「見る」ということを軸に書いたあの論文です。

「踏む」人間が、自身のその行為の何たるかを知っている、ということ、そう、それは、貴方も既にお分かりかと思いますが、「己を見る」ということなのです。



(4)ロドリゴはその時心の中で本当に棄教したのか。


ロドリゴが、その時心の中で本当に棄教したのか、というと、彼は、その時、「棄教した」というか、「神を裏切った」という認識を持ったと思います(「己を見た」のです)

そして、そのことがむしろ重要なのです。

神から最も離れた人間が最も神に救われる、というのが、キリストの教えです。



(5)映画ではロドリゴは棄教した生活をしていたが最後の火葬のシーンで十字架を握っていて本当は棄教していない事を暗示していた。これは説明的過ぎないか。原作もそうなのか。


原作のそのシーンをもう覚えていませんが、十字架を握っていたことは、棄教していない事を暗示している、というよりも、「神」というよりも「愛する人」を棄てようとしても棄てきれないことを意味しているのだろうと思います。

遠藤周作が、母を(母から与えられたキリスト教を)棄てきれなかったように。



(6)本来多神教でかつ仏教徒の日本人がカトリックの絶対的な神と個人が向き合う考えを何故受け入れたのか。踏み絵を頑なに拒んで殉教するのは欧米の映画では自然に受け入れられるが日本の農民だと違和感を感じる。


遠藤周作的かもしれませんが、日本人は(と、日本人をひとくくりで語ることは本当はできませんが)、カトリック(キリスト教)を「母なる神」として受け容れた要素があるのだろうと思います。

そこで、「マリア」の存在が大きいのです。映画で、隠れキリシタンの生活の中に「マリア」を描いた部分(マリア像関係)がありませんでしたか?

日本の農民が、殉教を選んだとしたら、それは現世があまりに苦しく、あの世に幸福を見出せると信じたからであろうと思います。

殉教は、彼らには苦痛ではなく、大いなる喜びであったのでしょう。総ての農民がそうであったということではないと思いますが。



(7)隠れキリシタンは本当のカトリック教徒だったのか。天国に行くのと極楽に行くのはどう違うと考えていたのか。フェレイラは日本人が敬っているのは「大日様」だど言っていた。


本当のカトリック教徒って、何でしょう?

ブラジルのポルトガル語は、ポルトガル人からするとおかしいものだと聞きましたが、西欧のカトリック関係者からすると、隠れキリシタンの信仰は珍妙なものでしょう。

実際、彼ら(隠れキリシタン)のオラショは、言葉の意味としても「意味をなさない」ものになっています。

天国と極楽の違いは余りなかったのではないかと思います。

遠藤周作的カトリックは、浄土真宗的と言われることもあります。

問題は、隠れキリシタンが本当のカトリックであったかどうかではないだろうと思います。彼らは、それを棄て切ることができなかったのです。その子孫たちは、先祖から伝えられた教えを捨てられなかったのです。

遠藤周作は、隠れキリシタンではありませんでしたが、彼の描いたキリスト像は、西欧のカトリック関係者には受け容れられなかったこともあり、ノーベル文学賞を受賞できなかった、とも言われています。

しかし、総ての西欧人が遠藤周作を否定している訳ではないでしょう。その証拠が多分、この映画なのです。

スコセッシの思想、というか、思いといいうか、感性は、遠藤周作にかなり近いものなのだと思います。

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分った、分った。確かに、ビエール・トンミー氏とエヴァンジェリスト氏は、ただの助平爺と変態爺ではないのかもしれない。

しかし、このやりとりはつまらない。

二人には、やはりただの助平爺と変態爺であって欲しい。




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