2017年3月4日土曜日

『おバカさん』に怒られた(青春のネラン先生)【後編】







老いた男は、ベッドでうなされていた。

「ウ……ウ……..」

呻き声は言葉にはなっていなかった。

一方、老人の頭の中に響いていた言葉は、強くはっきりしたものであったが、老人以外の誰にも聞こえるものではなかった。

「Monsieur XXXXXX!!!」


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「Monsieur XXXXXX!!!」

若い男は、ジョルジュ・ネラン(Georges Neyrand)先生に怒鳴られていた。

OK牧場大学の大学院文学研究科フランス文学専攻修士課程の授業であった。

「Monsieur XXXXXX!!!」

ネラン先生に、怒鳴られても、若い男は、体を硬直させたまま立ちすくんでいた。

男は、フランス語を喋ったり、聞いたりする訓練を受けておらず、ネラン先生に質問をされても、「Monsieur XXXXXX!!!」と強く云われるまで、当てられていることすら分っていなかったのだ。

ネラン先生は、藤周作の小説「おバカさん」の主人公『ガストン・ボナパルト』のモデルになられた方である。そして、1952年に来日され、日本語も堪能なはずであった。

なのに、馬面な風采の上がらぬ『ガストン・ボナパルト』とは異なり、ネラン先生は偉丈夫であり、授業では、日本語をお使いにならなず、

「Monsieur XXXXXX!!!」

と男を叱りつけたのだ。

男は、先生を恨んだ。逆恨みであることは分っていたが、ネラン先生を恨んだ。

「おバカさん」(ガストン・ボナパルト)のように、

「ふぁーい、XXXXXXさん」

と声をかけて欲しかった。

….が、現実にかけられた言葉は、

「Monsieur XXXXXX!!!」

なのであった。

『プロの旅人』氏の若い頃のようにも、エヴァンジェリスト氏の若い頃のようにも見える男は、ただただ立ちすくんでいた


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これは、老いた男の夢であったのだろうか。それとも、老いた男の青春のある日のできことであったのか。

「ウ……ウ……..」

ベッドでうなされながらも老いた男は分っていた。

これは夢だ、と。夢だが、現実にあったことであることを。

「ウ……ウ……..」

夢であろうと現であろうと、他人に云えぬ恥辱の歴史であったが、その恥辱の歴史にはもう一つ他人に云えぬ秘密があった。

「ウ……ウ……..」

とうなされながらも、男は思っていた。

『それは云えない。誰にも云えない…….ボクがネラン先生の呼び掛けに反応できなかったのは、フランス語の聞き取りができなかったから、ということだけではなかった』

男は、自身の記憶から抹消していたはずのことを思い出していた、

『ネラン先生のがボクに呼び掛けた時、そう、ボクは窓外を見ていたのだ』

男は、仏文の共同研究室の事務室横にある小部屋(教室)で修士課程の授業を受ける時、必ず窓側の席を取った。

窓側の席を取るようにしたのは、先生(教授、助教授、講師)からできるだけ離れ、当てられないようとの思いがあったからでもあったが、本当の理由はそれではなかった。

そもそも、その教室の机は、学部の教室のようなスクール形式の机ではなく、6-7人が囲むように座る大きな机であった。隠れても無駄、というか、先生から隠れることはできなかったのだ。

『ボクは分っている。ボクは、自分を見る。ボクは、自分自身を欺くことはできない』

男は、明らかにまだ眠っていたが、意識ははっきりしてきていた。

意識ははっきりしているようであったが、ベッドの中で目を閉じ、苦悶の表情を浮かべていたのだから、まだ夢の中にいたのであろう。

しかし、次に男が発した言葉は、もう呻き声ではなかった。

「〇〇子ちゃん….」

それは、明瞭に聞き取れた。

「〇〇子ちゃん….」

男は確かにそう云った。

『ボクは、その授業中も、研究室棟の4階であったか5階であったかにあった教室の窓から下を見ていたのだ。〇〇子ちゃんがそこを通りはしないのか見ていたのだ』





〇〇子ちゃんは、同級生であった。

しかし、〇〇子ちゃんは、4年生になる年にフランスに留学し、1年休学したので、〇〇子ちゃんと離れがたかった男は大学院に進学し、〇〇子ちゃんの帰国を待つことにしたのだ。




そして今(その時)、〇〇子ちゃんは既に帰国し、同じキャンパスに戻って来ていたのだ。

『〇〇子ちゃんが通るかもしれない,,,,ボクはそう思い、窓外を見ていたのだ。だから、ネラン先生の呼び掛けに気付かなかったのだ』

しかしまた、

「Monsieur XXXXXX!!!」

ネラン先生の怒声が男の頭に響いた。

ネラン先生は、授業よりも女性に想いが行っているいる学生の心を読んだのであろうか。

「Monsieur XXXXXX!!!」

それは、ネラン先生の声ではなく、自身を欺くことができない男の内心の声であったのかもしれない。



(おしまい)







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