2017年8月4日金曜日

アメリカに自由はあったか(その18)【米国出張記】






『NYSE』の次にエヴァンジェリスト氏と上司とが足を向けたところは、エヴァンジェリスト氏の『専門』分野と云えるかもしれない場所であった。

そこは、『トリニティ教会』であった。

『トリニティ教会』は、英国国教会系統の『聖公会』の教会であるらしい。『聖公会』は、カトリックとプロテスタントの中間の位置づけなんだそうだ。

そんなことを今になって知って思い返してみると(『今』は、2017年の今である)、『トリニティ教会』の佇まいは、どこかカトリックのそれを彷彿させるものがあったように思われないでもない。

しかし、『NYSE』のついでにたまたま立ち寄っただけの教会であり、当時は(1989年6月24日である)、予備知識の全くない状態での訪問であった。

『トリニティ教会』は有名な教会であり、そこをたまたま訪問するなんて、『トリニティ教会』に対して失礼千万なことではあろうが、エヴァンジェリスト氏と上司とがその時、ニューヨークにいたのは仕事の為(出張)なのである。観光ではなかった。

ビジネスマンたるもの、観光気分で出張をしてはならないのだ。

そう、エヴァンジェリスト氏と上司とのニューヨーク行は、あくまでビジネスマンとしての訪問であり、その日、ニューヨーク散策をしたのも、出張の空き時間を少し利用しただけのものであった。だから、『トリニティ教会』について何も知らなかったのは仕方のないことではないか。

尤も、エヴァンジェリスト氏と上司の二人の内、一人は、深夜に日本人ママのカラオケ・スナックで正体不明になるまで飲んで唄う為にニューヨークに来ただけだろう、と非難する人がいたら、どう抗弁していいか分らない。

二日酔いで翌日の仕事(提携先訪問)をすっぽかしておいて、ビジネスでニューヨークに来た、と云っていいのか、という追求を受けたら、それを躱す自信はない。

ニューヨーク訪問目的はともかく、エヴァンジェリスト氏と上司とが『トリニティ教会』を訪れたのは、本当に偶然であったのだ。

『NYSE』(ニューヨーク証券取引所)の建物の正面を写真に収め、その横の路地に目をやった時、そこに荘厳な建物が見えたのである。



何だろう?

エヴァンジェリスト氏と上司とは、近づいて行った。

見上げると、それは正面に時計のある教会らしき建物であった。



その時は、それが『トリニティ教会』であることは、分らなかった。

今なら、iPhoneで検索すれば直ぐに、それが『トリニティ教会』であり、その由緒正しさについても分ったであろう。

だが当時、エヴァンジェリスト氏の『同級生』のSteve JOBSは、まだiPhoneを世に出してはいなかった。

Steveは既に、Macintoshは開発し、既に販売をしていたが(Steveが当初、関っていたのは、『Macintosh』のプロジェクトではなく、『Lisa』のプロジェクトであったはずではあるけれど)、iPhoneについては多分、まだその発想すら持っていなかったのだ。

いや、Appleで革新を続けるどころか、1989年は、Steve JOBSは既に、Apple社を追われ(追い出され)、NEXTcubeを開発し、発売した頃であった。因みに、その前に(1986年に)、Steve JOBSは、Pixar社も設立している。

1989年、たまたま訪れた教会が、何やら由緒ありげであることは感じたものの、iPhoneを持っていなかったエヴァンジェリスト氏は、そこが実は、歴史と謂れのある教会であることを知らなかった。名前さえ知らなかった。

だが、名前を知ったならば、エヴァンジェリスト氏は、友のことを思い出していたかもしれない。

『トリニティ教会』という名前を、友であるビエール・トンミーに云っても、友は、何の反応も示さなかったかもしれない。

しかし、『トリニティ』とは、『三位一体』のことだと説明すれば、ヤツなら、

「おお!3Pか!」

と不謹慎極まりないというか、不遜としか云いようがない言葉を発したであろう。ヤツは、極め付けの変態だからだ。『世界を股に挟む』変態だからだ。

だが、実際には、『トリニティ教会』という名前も知らず、だから友のことを思い出すこともなかった。

ただ、教会内の荘厳なステンドグラスを見上げながら、そこに描かれたイエスと、多分、その弟子たちの姿に圧倒されながら、自分が論文の対象としたカトリック作家『François MAURIAC』と、『François MAURIAC』を自分に教えた遠藤周作とに想いを馳せていた

そこは(『トリニティ教会』は)、『François MAURIAC』のいたボルドー(フランス/ヨーロッパ)ではなく、ニューヨークであった。また、カトリック教会でもなかった(『トリニティ教会』の名前も宗派もその時は知らなかったが、米国であるので、多分、カトリックではないとは思っていた)。

しかし、『トリニティ教会』の中で、その荘厳な空気に包まれていると、ボルドーの教会に彷徨い込んだ感覚に囚われたのである



おお、MAURIACよ、遠藤先輩よ!

こうして一時、ビジネスの世界から本来の『専門』(フランス文學・カトリック文學)の世界に戻ったエヴァンジェリスト氏ではあったが、次に向ったところは、まだビジネスの世界であった。



(続く)






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