(参照:アメリカに自由はあったか(その20)【米国出張記】の続き)
その年の暮に『米国』が『パナマ侵攻』をすることをエヴァンジェリスト氏がまだ知らなかった1989年6月24日のことである。
『世界一周の旅』(世界一周の出張)中のエヴァンジェリスト氏と上司とは、ニューヨークの『バッテリー・パーク』にいた。
米国に関心のないエヴァンジェリスト氏は、『バッテリー・パーク』の名前の由来を知らなかった。
『バッテリー・パーク』内にある銅像が、有名な『エイズ被害者のためのモニュメント』であることも知らなかった。
煉瓦造りの古い建物が、『キャッスル・クリントン・ナショナル・モニュメント』という米国の歴史を物語るものであることも知らなかった。
どんなに歴史があると云ったところで、たかだか200年程度であったし、『米国』を好きではなかったのだ(米国民を、ではなく、『米国』という国を、である)。
『米国』を独善的だと思うし、本当に『自由』の国なのであろうか、と思うのだ。
しかし、エヴァンジェリスト氏が『バッテリー・パーク』に来たのは、『自由』を見に来たのであった。
「ニューヨークと云えば、アレだろ」
上司はそう云って、エヴァンジェリスト氏を『バッテリー・パーク』に連れて来たのだ。
上司も、『バッテリー・パーク』に『エイズ被害者のためのモニュメント』があることや、『キャッスル・クリントン・ナショナル・モニュメント』があることを知らなかったであろう。
だから、そういったモニュメントをゆっくり見ることもなく、上司は、海岸に向って行った。
海岸に着き、その向こうにあるものを見ようとしたところ、声を掛けられた。
「すみません、写真撮って頂けますでしょうか」
日本人のアベックであった(今風に云うと、カップルだ)。こちらが日本人だと分ったようだ。
「あ、いいですよ」
上司が気前よく引き受けた。エヴァンジェリスト氏は自分が写真を撮ってあげようと思っていたところを上司がすかさずアベックに返事をしたのであった。
エヴァンジェリスト氏はなんだか気に喰わなかった。上司がいい人ぶっている感じがしたのだ。
上司は、悪い人とは思わないし、いい人と云えばいい人であるのだが、身勝手な人なのだ。自分の行きたいところにしか行かないし、通訳しないふりをして通訳をさせるし、二日酔いで仕事をすっぽかす人なのだ。
なのに、『あ、いいですよ』と云ってアベックの写真を撮ってやるのだ。
「あ、もうちょっと、こっちに寄って」
海を背にしたアベックの立ち位置の微調整までしてあげるのだ。
「有難うございます!」
アベックは感激して立ち去って行った。立ち去りながら、海の方を振り向いていた。
そうだ、アベックは、海の向こうにあるものを背にして写真を撮りたかったのだ。
海の向こうにあるものは、誰もが知るものであった。アメリカの象徴、ニューヨークの象徴であった。
『自由』の国の『米国』の象徴、『自由の女神』(Statue of Liberty)である。
『自由の女神』は、『米国』の象徴であるが、周知の通り、元々は『米国』のものではない(『米国』が『米国』の為に作ったののではない)。『米国』の独立100周年を記念して1886年に、フランスから寄贈されたものだ。
その返礼として、フランス在住のアメリカ人たちが、1889年にフランス革命100周年記念としてセーヌ川のグルネル橋のたもとに小さな『自由の女神』を建てており、この米国出張の後に行くパリでエヴァンジェリスト氏は、そこでもう一つの『自由の女神』も見ることになるのであった。
ニューヨークの『自由の女神』は、パリのそれよりもすっと大きい。しかし、『バッテリー・パーク』の海岸から見る『自由の女神』は、小さかった。
『自由の女神』は、『バッテリー・パーク』からはかなり離れているのだ。
だから、『自由の女神』をちゃんと見ようとすると、フェリーに乗ってリバティ島まで行くべきなのであろう。
二人の前を『自由の女神』を見る為にフェリー乗り場に向かうのであろう人々が流れて行っていた。
しかし、エヴァンジェリスト氏と上司とは、『自由の女神』を『バッテリー・パーク』から見るに留めた。
その日(1989年6月24日)、二人はパリに向け、出発することになっていたからだ。
そしてまた、可愛げのないエヴァンジェリスト氏は、ニューヨークの『自由の女神』にも興味がなかったのだ。
『米国』には『自由』が本当にあるのか?
アメリカン・ドリームなるものがあるらしい。『米国』では、日本では叶わぬような『成功』を収めることも(大金儲けも)可能であるらしい。『自由』の国だからである。
しかし、米国民は本当に『自由』であるのか?
人種差別があったのではないのか?いや、それは『過去形』でいいのか?今は(1989年の今は)もう人種差別はないのか?
『自由』の国で何故、太平洋戦時下、日系米国人は強制収容されたのか(日系とはいえ、米国民だ)?
米国民の多くが、広島・長崎への原爆投下を『是』としていると聞くが、彼らが、原爆投下の『真実』を知らされていないのではないのか?それが『自由』の国であるのか?
昭和29年生れのエヴァンジェリスト氏は、広島出身ではあるが、被曝はしていない。しかし、昭和29年は、戦争終結からたった9年しか経っていない時であった。
エヴァンジェリスト氏が物心ついた昭和30年代、広島は既に復興していた。しかし、戦争の跡、被曝の跡は広島の街のまだそこかしこにあった。
広島の川べりには、バラックが林立していた(もうしばらく前にバラックは整理され、広島の川は綺麗になったけれど)。
住友銀行広島支店の入口前には、原爆投下時、そこに座っていた人の影の跡のある石段がそのままにされていた(今は、平和資料館に寄贈されているらしい)。
住友銀行広島支店の入口前には、原爆投下時、そこに座っていた人の影の跡のある石段がそのままにされていた(今は、平和資料館に寄贈されているらしい)。
高校への通学路にあった被服廠の鉄製の窓の扉は、爆風で曲がったままになっていた(多分、今もまだそのままではないだろうか)。
やはり爆風により、上部が『へ』の字型になってしまった被服廠の塀もそのままそこにあった(これも今は、平和資料館に寄贈されているらしい)。
被服廠は煉瓦造りの建物であるが、同じ煉瓦造りなら被服廠の方が、『キャッスル・クリントン・ナショナル・モニュメント』よりもずっと歴史的意味合いがあるのではないのか!
昭和30年代はまだ、広島市内には、首筋等にケロイドのある人たちを街中で普通に見かけていたのだ。
平和資料館に行くと、もっと悲惨な『現実』をもっと見ることができるであろう。
エヴァンジェリスト氏の義理の伯母は被曝者であった。だから、その子供たち(エヴァンジェリスト氏の従兄弟たち)は、被曝2世である。
被曝はしていないが、原爆はエヴァンジェリスト氏の身近にあるのだ。原爆だけが悲惨であるとは思わないが、
平和資料館に行くと、もっと悲惨な『現実』をもっと見ることができるであろう。
エヴァンジェリスト氏の義理の伯母は被曝者であった。だから、その子供たち(エヴァンジェリスト氏の従兄弟たち)は、被曝2世である。
被曝はしていないが、原爆はエヴァンジェリスト氏の身近にあるのだ。原爆だけが悲惨であるとは思わないが、
米国民は、そういった広島の『現実』を知らされているのか?原爆に限らず戦争たるものの『悲惨』を知っているのか?もし、知らさせれていないとしたら(或いは、それを知ろうとしていないのなら)、それが真に『自由』の国であるのか?
……そんな想いを胸に抱きながら、エヴァンジェリスト氏は、上司と次の『場所』に向かって行った。
その『場所』とは………
(続く)
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