「え?『スケベ』?」
という『少年』の言葉に、他の乗客たちの視線が、『少年』とその家族に向いた。牛田方面に向う『青バス』(広電バス)の中であった。
「まあ、何を云うの!降りるわよ」
と、『少年』の母親は、頬の皮膚の下を強い朱に染めて、『少年』の肩を抱えるようにしてバスを降りた。『少年』の父親と『少年』の妹が続いた。
「『洋子』ちゃん…」
広島の進学校である広島県立広島皆実高校の出身で、『ハンカチ大学』の商学部に在籍しているようである青年が、他の誰にも聞き取れない程度の小さな声で呟いた。『少年』の妹が、彼には、前年(1966年)にテレビ・ドラマ化もされた三浦綾子・原作の『氷点』のヒロインの少女『陽子』を演じる『内藤洋子』に見えていたのであった。
「ビエ君らしくないわ。あんなこと云うなんて」
バスを降りた『少年』の母親は、『少年』に悲しげな顔を向け、そう云った。学業優秀で品行方正な『少年』を叱ることなんてまずなかった『少年』の母親にとって、公衆の面前での『少年』の言葉はショックだった。
「だって、父さんが…」
『牛田新町一丁目』のバス停を背にし、『少年』は項垂れたまま、左右の脚を交互に前に出していった。
「父さんの発音が悪かったかな。すまん、すまん」
『少年』の父親が、『少年』を庇う。
「『スカラベ』って云ったんだ」
「『スカラベ』?」
「ああ、『フンコロガシ』のことだ。知っているだろ、『フンコロガシ』は?」
「知ってるけど、どうして、『ケペル先生』が、『フンコロガシ』なの?」
『少年』は、『青バス』の中で父親に、NHKで放送されていた子ども向けの番組『ものしり博士』の『ケペル先生』の『ケペル』の名前の由来について、訊き、少年』の父親は、昔の2人の天文学者の名前、『ケプラー』と『コペルニクス』とを掛け合わせたのではなかったか、と答えていた。しかし、もう一つ、『ケペル』の名前の由来として、『スカラベ』を、つまり、『フンコロガシ』を挙げたのだ。
「古代エジプト人は、『フンコロガシ』を創造の神として崇拝していたんだ」
「ええー!『フンコロガシ』を!?だって、『フンコロガシ』って、糞を丸めて転がしていくんだよ」
「そうだな。だから、まさに『フンコロガシ』という名前がつけられているんだ」
「そんな糞を転がす虫を崇拝していたなんて!」
「おい!」
会社でも家庭でも温厚な『少年』の父親が、珍しく声を荒げた。
(続く)
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