「エヴァさん、曲がれるよね?」
列のすぐ前にいた女性が振り向いて云ったその言葉を聞いた時、エヴァンジェリスト氏は、自分と同じで『曲がったことが嫌い』なプロレスラーというか格闘家というか前田日明が、師匠である猪木さんについて、「猪木なら何をしてもいいのか」と云った時、自分が、「そう、猪木さんなら、何をしてもいいのだ。相手が、弟子であれ誰であれ、勝つ為には手段を選ばないのが猪木さんなのだ」と思うようになることは、まだ知らなかった。
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1980年のその日、エヴァンジェリスト氏が、いつものように上池袋の『3.75畳』で、敷きぱなっしの布団を座布団がわりにその上に座り、布団の直ぐ横に置いた小さな炬燵に足を入れ、炬燵を机に修士論文を書いている時、聞こえた来た泣き声がしていたのは、『3.75畳』の入口側にあった半間の押入れからであった。
勿論、その半間の押入れに誰か入っていた訳ではなく、心霊現象でもなかった。
上池袋では、『この事件』の他にも、色々な『事件』が発生したが、心霊現象だけはなかった。
『曲がったことが嫌いな男』であるエヴァンジェリスト氏は、いつか幽霊なるものに会ってみたいと思っていた(今もそう思っている)。
「何故、人を呪って殺したりするのか!私を殺せるものなら殺してみろ!死んだら、こっちも幽霊だ。アナタと同じ『力』持つのだ。そうしたら、今度は、私がアナタを呪い殺して見せようぞ」
と、ゲーデルの『不完全性定理』的な言葉を投げつけてみたい、と思っていたが、半間の押入れにはどうみても幽霊はいなかった。
だが、泣き声がして来ているのは、やはり、半間の押入れであったので、エヴァンジェリスト氏は、開けっ放しとしている半間の押入れの上段に両肘を付き、上半身を押入れの中に入れた。
「あ……んん……」
微かだが、泣き声が聞こえる。
しかし、押入れの中には勿論、誰もいない。隣室から聞こえて来ているのだろうか?
隣室の住人は、エヴァンジェリスト氏より少し年上の30歳前後と見える『お兄さん』であった。
廊下や共同台所で会うと挨拶を交わすだけの間柄であったが、極めて普通のサラリーマンのようであった。
隣室であったが、ステレオを大音響でかけたり、友人が来て騒いだりすることもない常識人であった。
しかし、『曲がったことが嫌い』で余りにも『真っ直ぐな』エヴァンジェリスト氏は、知らなかった。他人を疑うことを知らなかったのだ。
後に、エヴァンジェリスト氏は、隣室の『お兄さん』が、共同トイレでとんでもないことをしていること知ることになるのだ。
そう、隣室の『お兄さん』は、この地球に『重力』があることを知らなかったのだ。
隣室の『お兄さん』も『曲がったことが嫌いな男』であったのであろうか、トイレのドアの外に立って、そこから小水を飛ばしていたのだ。
これがどういう事態を引き起こすか、お判りであろう。小水の飛ばし始めと、飛ばし終りの時に、小水は便器の手前に落ちるのである。しかも、隣室の『お兄さん』は、それを拭かないのだ。
隣室の『お兄さん』のこの性癖を知る前、エヴァンジエリスト氏は時々、トイレがやけに水浸しになっているなあ、と思いながら、濡れたトイレの床を拭いていたのだ。
(参照:重力発見!【原点(後編)】)
しかし、泣き声が聞こえたこの時はまだ、エヴァンジェリスト氏は、隣室の『お兄さん』のその性癖を知らず、常識人と思っていた。部屋で一人泣くような人とは思えなかった。
それに、泣き声は、押入れの隣室との壁から聞こえて来てはいなかったのだ。
泣き声がしていたのは…………
(続く)
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