「エヴァさん、曲がれるよね?」
列のすぐ前にいた女性が振り向いて云ったその言葉を聞いた時、エヴァンジェリスト氏は、自分と同じで『曲がったことが嫌い』なプロレスラーというか格闘家というか前田日明が、師匠である猪木さんについて、「猪木なら何をしてもいいのか」と云うようになることは、まだ知らなかった。
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エヴァンジェリスト氏が、いつものように上池袋の『3.75畳』の下宿で、敷きぱなっしの布団を座布団がわりにその上に座り、布団の直ぐ横に置いた小さな炬燵に足を入れ、炬燵を机に修士論文を書いていた1980年のその日、どこかで、人の泣き声が聞こえたような気がした。
エヴァンジェリスト氏は、先ず、東側の窓の方に右耳を傾け、次に、北側の窓の方に左耳を傾けたが、泣き声が聞こえて来ているのは、東側でも北側でもなかった。
部屋の入り口の方から聞こえて来ているような気がし、炬燵から脚を抜き、立ち上がり、入口の扉まで行った。
だが、扉の向こう、廊下に誰かいる様子はなかった。
その時、泣き声は聞こえなくなっていた。
エヴァンジェリスト氏は炬燵に戻り、再び、そこに脚を入れ、修士論文に向った。
時々、炬燵の天板の上に置いた『Le Nœud de Vipères』(蝮の絡み合い)を開き、内容を確認した。『François MAURIAC』(フランソワ・モーリアック)の最高傑作であるその作品は、幾度も読んだ小説であるが、論文の為に部分を読み返すだけでも、エヴァンジェリスト氏は胸に詰るものがあった。
「ああ…….」
主人公への共感から、そんな声も漏れた。
しかし、その時、再び、泣き声が聞こえて来た。やはり、入口の方から聞こえるような気がしたので、炬燵から出て、再度、入口に向った。
入口まで行った時、泣き声がするのは、やはり入口の扉ではないことが分った。
泣き声がしていたのは……….
泣き声がしていたのは、『3.75畳』の入口側にあった半間の押入れからであった。
勿論、その半間の押入れに誰か入っていた訳ではない。そんなことがあったら、それは心霊現象であった。
上池袋では、『この事件』の他にも、色々な『事件』が発生したが、心霊現象だけはなかった。
『曲がったことが嫌いな男』であるエヴァンジェリスト氏は、いつか幽霊なるものに会ってみたいと思っていた(今もそう思っている)。
幽霊に会ったら、
「アナタ、どうして人を怖がらせるのか?」
と訊いてみたいと思っていた。
「何故、人を呪って殺したりするのか!」
と云ってやりたいと思っていた。
「私を殺せるものなら殺してみろ!死んだら、こっちも幽霊だ。アナタと同じ『力』持つのだ。そうしたら、今度は、私がアナタを呪い殺して見せようぞ」
と、ゲーデルの『不完全性定理』的な言葉を投げつけてみたい、と思っていた。
しかし、半間の押入れにはどうみても幽霊はいなかった。
だが、泣き声がして来ているのは、やはり、半間の押入れなのだ。
エヴァンジェリスト氏は、開けっ放しとしている半間の押入れの上段に両肘を付き、上半身を押入れの中に入れた。
「あ……んん……」
微かだが、泣き声が聞こえる。
しかし、押入れの中には勿論、誰もいない。隣室から聞こえて来ているのだろうか?
(続く)
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