「エヴァさん、曲がれるよね?」
列のすぐ前にいた女性が振り向いて云ったその言葉を聞いた時、エヴァンジェリスト氏は、それから2年余り後のカナダ出張の際にも、提携先企業のカナダ人社員に、自分はプロレス・ファン、というか猪木ファンだ、と云ったところ、「プロレスはショーだから、ここではインテリアはプロレスのことは口にしないものだよ」と諭されることになるが、『曲がったことが嫌いな男』である自分は、「いや、猪木の試合は、『serious fight』である」と堂々を主張することになることをまだ知らなかった。
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1980年、その日、エヴァンジェリスト氏は、新小岩にいた。
上井草の下宿が建て替えられることとなり、他の下宿を探すことになったのだ。
大学院生(修士課程)であったエヴァンジェリスト氏は、学費以外の生活費は、奨学金でまかなっており、下宿の変更も自費でまなかうこととした。
その為、月1万円以内の物件(下宿)を探す為、新宿にあった学生専門の不動産会社を訪れ、そこで紹介されたのが、新小岩の物件であったのだ。
新小岩駅南口を出て、不動産会社でもらった地図を頼りに、物件へと向う道すがら、エヴァンジェリスト氏がめにしたのは、白いシャツに黒の蝶ネクタイをし、店の前を掃き、水を撒くたお兄さんたちの姿であった。昼間のキャバレー街である。
「おお!こういうところであったか」
その時、眼前に友人の顔が浮かんで来た。
「アイツなら喜ぶであろう」
華やかな衣装をまとったオネエさんたちが嬌声を上げているキャバレーの中で、頬を緩めているビエール・トンミー氏の姿を想像した。
そうしている内に、目的地に着いた。
物件は、ごく普通の民家で、2階の何室かを下宿としていた。
大家さん(60歳台と思しきおばさん)に案内され、空室になっている部屋を見た。
北東の6畳の部屋で、東側に窓があったが、住宅密集地なので、窓からは大して光は入らず、少々電車の音が聞こえてくるようであった。
「ああ、総武線が近いからねえ。でも、そんなに気にならなくなるわよ」
暗い部屋の中で陽気なおばさんが、悪びれず、そう云った。
しかし、エヴァンジェリスト氏が気になったのは、部屋の暗さでもなく、電車の音でもなかった。
臭いである。
便所臭がしたのである。トイレは、部屋の外にあった。共同トイレである。
上井草の下宿の方がトレイは近く、しかも『汲み取り式便所』であったが、そこに入らぬ限り、便所臭がすることはなかった。
「ここだと、アイツは来なくなるな」
エヴァンジェリスト氏は、上井草の下宿で、ビエール・トンミー氏が云い放った言葉を思い出していた。
「ココの『便所』は、『鼻が曲がる』じゃあないか!君はよくあんな『鼻がひん曲がる』便所を使っているな。『曲がったことが嫌いな男』が笑わせるぜ」
(続く)
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