2018年3月20日火曜日

【曲がったことが嫌いな男】石原プロに入らない?入れない?[その39]



「エヴァさん、曲がれるよね?」

列のすぐ前にいた女性が振り向いて云ったその言葉を聞いた時、エヴァンジェリスト氏は、自分と同じで『曲がったことが嫌い』なプロレスラーというか格闘家というか前田日明は、『真っ直ぐ』であるが故に、師匠である猪木さん批判も辞さないようになることをまだ知らなかった。

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1980年、上池袋に来ても、エヴァンジェリスト氏は、『曲がったことが嫌いな男』であった。

エヴァンジェリスト氏が上井草に替る新たな下宿に選んだのは、上池袋の3.75畳の部屋であった。

『3.75畳』の部屋の中も、総てのものが、『真っ直ぐに』整理されていた。

万年床は、起床すると、就寝前の時のように『キチンと』敷かれ直され、クローゼットには、ジャケット等が『歪みなく』ハンガーに掛けられ、書籍は、洋書は洋書、和書は和書等と『明確に』分類されて、カラーボックスに並べられ、そのカラー・ボックスの上には、『赤いきつね』の空き容器が、上井草の下宿同様、曲がることなく』積み重ねられていた。

『3.75畳』には、上下二段になった半間の押入れもあり、その中も、読み終えた新聞紙が、これも上井草の下宿同様、曲がることなく』積み重ねられ、衣類を入れた段ボール箱も下着は下着、セーターはセーターの段ボールといった風に分類され、隙間なく『真っ直ぐに』並べられ、夏になると、上の段の空きスペースには、ジーパン等のズボン類が、『折り目に合わせて』畳まれ、置かれた。

この押入れは、基本的には、部屋の『延長』であり、常時、襖は開けられていた。

この半間の押入れがなかったら、幾ら整理上手のエヴァンジェリスト氏であっても、『3.75畳』にモノは入り切らず、生活するに窮していたであろう。

しかし、その押入れで、ある時、『事件』が起きた。






その時もエヴァンジェリスト氏は、いつものように『3.75畳』で、敷きぱなっしの布団を座布団がわりにその上に座り、布団の直ぐ横に置いた小さな炬燵に足を入れ、炬燵を机に修士論文を書いていた。

炬燵の左手に置かれた5インチ白黒ポータブルテレビである「National RANGER-505」では、『ウルトラマン80』が放映されていたような気がするが、もう子どもではなく、また論文の執筆(というか、執筆前で構成を練っている段階であったが)に集中していたので、『ウルトラマン80』の内容は記憶にない。

論文のテーマは、『François MAURIAC』(フランソワ・モーリアック)である。

エヴァンジェリスト氏は、中学生時代から遠藤周作の著作ばかり読んでいた。

遠藤周作は、芥川賞作家であったが、エヴァンジェリスト氏が遠藤周作を読み始めた頃は、まだ『違いがわかる男』としてネスカフェのCMに出る前で、一般にはまださほど有名ではなかった。





中学生2年生のエヴァンジェリスト氏が最初、読んだ遠藤周作の小説は、『白い人・黄色い人』であったが、面白いと思えなかった。しかし、それ以前に内容を理解できなかった。

次に読んだのは、『海と毒薬』であったが、これも全く理解不能であった。

白い人・黄色い人』を理解できた訳でも、面白いと思った訳でもないのに、何故、『海と毒薬』を購入し、読む気になったのか、エヴァンジェリスト氏自身、記憶にない。

いや、そもそも何故、『白い人・黄色い人』を購入し、読む気になったのか、不明である。

それは、『運命』とでも云うしかない。ある意味で、今のエヴァンジェリスト氏を形成したのは、遠藤周作なのである。『エヴァンジェリスト』(福音を述べ、伝道する人)という名前そのものに、それは現れているではないか。

『運命』に導かれたエヴァンジェリスト氏は、高校生になる直前にも、また遠藤周作の小説を購入した。

それが、『おバカさん』であった。遠藤周作の小説の分類では、『白い人・黄色い人』、『海と毒薬』が『純文学』と呼ばれるものであったのに対し、『おバカさん』は、『中間小説』と呼ばれるものであった。

『純文学』作品に比べ、読み易いものであったせいか、『おバカさん』で初めて、エヴァンジェリスト氏は、『遠藤周作』なるものを理解した。いや、『遠藤周作』なるものに捉えられたのであった。

その意味で、『おバカさん』との邂逅は、エヴァンジェリスト氏の人生にとって、エポック・メイキングなものであったのだ。まさか、後年、『おバカさん』に(『おバカさん』のモデルとなった神父にして大学の先生に)授業で叱られることになるとは、最初に『おバカさん』を読んだ頃には思いもしなかったが。




『おバカさん』に続き、『ヘチマくん』、『わたしが棄てた女』と遠藤周作の中間小説を読み進み、『狐狸庵閑話』等のエッセイも読むようになり、『沈黙』や『青い小さな葡萄』等の純文学小説も読むようになった。遠藤周作は、カトリック作家であるが、所謂『宗教作家』とは異っており、その作品も『宗教臭さ』(説教臭さ)はなかった。

エヴァンジェリスト氏は、高校生時代は殆ど、遠藤周作の著作しか読まなかった。

そうして、その延長線上に『François MAURIAC』がいたのだ。『François MAURIAC』は、遠藤周作に強い影響を与えたフランスのカトリック作家である。

『遠藤周作』をもっと知りたく、その為には、『遠藤周作』に影響を与えた『François MAURIAC』も知ろうと思い、エヴァンジェリスト氏は、OK牧場大学へと進学し、そこでフラン文学を専攻し、更には、OK牧場大学の修士課程でもフランス文学を専攻するようになったのだ。

必然的に、学部の卒業論文も『François MAURIAC論』であり、修士論文も『François MAURIAC論』とすることになったのである。

そう、『曲がったことが嫌いな男』であるエヴァンジェリスト氏は、中学、高校、大学、大学院と『真っ直ぐに』、『遠藤周作』・『François MAURIAC』の道を歩んで来たのだ。

そして、上池袋で、その集大成とでも云うべき修士論文『François MAURIAC論』に取り掛かっていたのだ。

その時も、座布団がわりの布団(万年床)の上に座り、机代りに布団の直ぐ横に置いた小さな炬燵に足を入れ、炬燵の天板に左腕の肘を置き、左手で頭を抱え、悩み深き作家然として修士論文に向かっていたのであった。

が………

どこかで、人の泣き声が聞こえたような気がした。

エヴァンジェリスト氏は、左で抱えていた頭を上げ、周りを見回した…..


(続く)



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