「エヴァさん、曲がれるよね?」
列のすぐ前にいた女性が振り向いて云ったその言葉を聞いた時、エヴァンジェリスト氏は、1958年に来日したフランソワーズ・モレシャンさんが、昭和30年代の日本人は、今と比べて大変な時代に生きていたはずなのに、誰も『大変だ』とは云っていなかったと仰るのを聞き、いつも『大変だあ、大変だあ、疲れたああ』と云っている自分について、とても『曲がったことが嫌いな男』とは云えないなあ、と思うようになることをまだ知らなかった。
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エヴァンジェリスト氏は、1982年の冬、草津にいた。
会社の同期の皆で草津にスキーをしに来たのだ。
しかし、バスでスキー場に向かう皆とは別に、同期の1人であるオン・ゾーシ氏の運転するセダンに乗って(オンゾーシ氏の恋人のニキ・ウエコさんも一緒だ)、スキー場に向ったエヴァンジェリスト氏は、途中、凍結した坂や道のせいで、到着が大幅に遅れた。
午前10時過ぎ、ホテルにチェックインし、オンゾーシ氏に借りた高価なスキーウエアに着替えたエヴァンジェリスト氏は、鏡に映った自身の姿を見て呟いた。
「いいのか、ボクが…..」
同様、スキーも、決して裕福とは云えない家庭に育ったエヴァンジェリスト氏にとっては、高嶺の花のスポーツであったのだ。
しかし、嫌悪する金持ちという存在の側に自分が立っていることに罪悪感を持ちながら、その一方、一生踏み入れることはないと思っていた世界に自らの身を置こうとしていることに、若きエヴァンジェリスト氏の細胞には、一種の高揚感のようなものが泡立っていた。
だが、レンタル・スキー・ショップで、オンゾーシ氏に選んでもらったスキー板とストック、そして、スキー靴を借り、スキー靴に脚を入れ込んだ時、エヴァンジェリスト氏に衝撃が走った。
「(な、なんなんだ、これは!)」
脚が曲がらない。いや、曲がらなくはないのだが、脚が思うように動かせない。
「(こりゃ、ギブスではないか!嘘だろ!....こんなん履いて、滑るのか!?)」
ストックを持ち、それを杖として何とか立ち上がり、草津の町をロボットのように、右肩と右足を一緒に出し、次に、左肩と左足を一緒に出して歩く。
「(これは、『恐怖のミイラ』だな)」
小学生の時に見たテレビ・ドラマ『恐怖のミイラ』は怖かった。しかし、今、エヴァンジェリスト氏は、『恐怖のミイラ』のようにしか歩けない自分の姿が、情けなく、怖かった。『恐怖なオイラ』であった。
「(金持ちも、楽ではないのだなあ)」
しかし、本物の金持ちであるオンゾーシ氏は、スイスイと歩いて行く。
「エヴァさん、大丈夫?」
オンゾーシ氏が声を掛ける。
エヴァンジェリスト氏は、大丈夫ではなかった。
「(ボクは、貧乏人のままでいい…..)」
そう弱音を吐きそうであったが、『恐怖なオイラ』は、何とかスキー場に辿り着いた。
「じゃ、ボクが先ず、基本を教えるね」
オンゾーシ氏が、優しくエヴァンジェリスト氏に話し掛けた。
「他の初心者は、午前中、スキー教室で手解きを受けたはずなんだけど、もうスキー教室は終っちゃってるから」
もう午前11時を過ぎている。
「じゃ、リフトに乗ろう!」
「(おおお!リフトか!知ってるぞ、リフト。椅子みたいなのに座って、ロープウエイみたいに上まで運んでくれるやつだな)」
金持ちの世界に一歩氏を踏み入れたエヴァンジェリスト氏の高揚感はいや増した。
(続く)
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