「さっき見た『天満屋』なんだが…」
と、『少年』の父親は、牛田方面に向う『青バス』(広電バス)の中、そのバスに乗車する前に、『少年』と見上げていた八丁堀のデパート『天満屋』に話を戻してきた。
「創業は、1829年なんだよ」
と、『少年』の父親は、『天満屋』の沿革を語り出した。広島の老舗デパート『福屋』本店の南側出口(えびす通り玄関)を出た『少年』とその家族が、帰宅の為、えびす通りをバス停に向い、えびす通りと中央通りとの交差点の横断歩道近くまで来た時、父親は、中央通りの向こう側に聳える百貨店『天満屋広島店』を指差しながら、『天満屋』の歴史を語り出した。そして、『天満屋』の創業の時代、『文政』年間に、『シーボルト』が来日した、と説明し、更に、その『シーボルト』が、オランダ人として日本に入国したものの、実はドイツ人の医者であったこと、更には、日本の女性との間に娘をもうけたことを説明したところ、『少年』が、『シーボルト』は日本で日本の女性と結婚したんだね、と確認してきた為、当時(江戸時代)の結婚というものの説明まで始めることとなり、結婚の際に必要となった書類の説明や、それに関連した宗教、宗派のこと等を説明し、更に、国際結婚が認められるようになった歴史や、それに関連して『ナポレオン法典』やその翻訳にあたった人物等についても説明していくにつれて、話のテーマは、『結婚とは何か?』という根元的なものへと展開し、『通い婚』時代の儀式や、そこから天皇制と一般人民の歴史といった思い掛けない方向へと行ったが、ようやく『シーボルト』と日本の女性との『結婚』に話が戻り、更に、『シーボルト』とその日本の女性との間にできた娘『イネ』が日本初の女医であったことを紹介した。しかし、その『イネ』が医学を学んだのは、父親の『シーボルト』ではなく、『シーボルト』の弟子の『二宮敬作』であり、そうなったのは、『シーボルト』が『イネ』の2歳の時に国外追放となった為であることを説明し、国外追放となったのは、1828年(文政11年)に発生した『シーボルト台風』が切っ掛けであったと説明してきていたのであった。
「ああー!『シーボルト台風』の次の年だね!」
「そうだ。。1829年、つまり、文政12年というのは、『シーボルト台風』の次の年であり、『シーボルト』が国外追放された年なんだ。『シーボルト』は、『大日本沿海輿地全図』なんかを持ち出すことがバレた後、出島に一年間、軟禁されていたんだ」
「つまり、『シーボルト』が国外追放された年に、『天満屋』が創業したんだね」
「そう、1829年、『天満屋』は、備前西大寺で、小間物屋として創業したんだ」
「『備前西大寺』?」
「『備前』というのは、『備前』の国のことで、今の岡山市辺りのことなんだ」
と、『少年』の父親は、取り出したままにしていた手帳に、自身のモンブランの万年筆で、『備前西大寺』と書いた。そして、更に、『備後』と書いて、それを指し示しながら、
「『備後』という国もあって、これは、今の広島県の東の方、福山市辺りのことなんだ。で、『備前西大寺』は、今は『西大寺市』で、天満屋はそこで創業したんだ」
と、『少年』の父親が説明した頃(1967年である)はまだ、『西大寺市』は、岡山市に編入合併される前であった(合併されたのは、その2年後の1969年である)。
「西大寺市には、『西大寺』というお寺があったの?」
「今もあるさ」
「じゃあ、何故、ただ『西大寺』と云わず、わざわざ『備前西大寺』と云うの?」
「うーむ、多分、西大寺は、奈良にもあるからじゃないかなあ。そちらの方は、奈良、つまり、『大和』の国にあるから、近鉄電車の最寄駅の名前は、『大和西大寺』というんだ」
「じゃあ、『西大寺』って、奈良の方が有名なの?」
「どうかなあ。まあ、確かに奈良の方が、所謂、歴史はある土地だからなあ。でも、備前の『西大寺』って、結構、有名なんだぞ。むしろ、備前の『西大寺』の方が有名なくらいかもしれん」
という父親の説明に、『少年』が身を乗り出すようにして、興味を示した時、
「N、Ng…」
バスの中の他の誰にも聞き取れない程度の小さな声が、それまでの呟きではなく、呻き声のようなものをあげたが、そのうめき声のようなものは、呟きでも、呻き声でもなく、どこか元素記号を音にしたようなものへと変っていった。どうやら、広島の進学校である広島県立広島皆実高校の出身で、『ハンカチ大学』の商学部に在籍しているようである呟きの主、いや、今や元素記号を音にしたようなものを発する主は、その時、同じ『青バス』(広電バス)に乗り合わせた美少女、前年(1966年)にテレビ・ドラマ化もされた三浦綾子・原作の『氷点』のヒロインの少女『陽子』を演じる『内藤洋子』に似た美少女を『源氏物語』の『若紫』と見立て、『光源氏』のように、『新手枕』の翌朝に、彼女から恨まれたいというサディスティックでもありマゾヒスティックでもあるような感情を抱いたが、それが単なる感情ではなく、彼の肉体にある『変化』をもたらした結果、元素記号を音にしたようなものを、彼は発することになったようであった。
(続く)
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