2022年2月8日火曜日

【牛田デラシネ中学生】変態の作られ方[その133]

 


古代の出雲族は、『ツングース』だったかもしれないんだ」


と、『少年』の父親は、『ツングース』に関して、『少年』が予期できるはずもなかった説明を始めた。牛田方面に向う『青バス』(広電バス)の中であった。


「出雲?島根県の?」


と云いながら、『少年』は、中国地方の地図を思い描いた。広島の老舗デパート『福屋』本店の南側出口(えびす通り玄関)を出た『少年』とその家族が、帰宅の為、えびす通りをバス停に向い、えびす通りと中央通りとの交差点の横断歩道近くまで来た時、父親は、中央通りの向こう側に聳える百貨店『天満屋広島店』を指差しながら、『天満屋』の歴史を語り出した。そして、『天満屋』の創業の時代、『文政』年間に、『シーボルト』が来日した、と説明し、更に、その『シーボルト』が、オランダ人として日本に入国したものの、実はドイツ人の医者であったこと、更には、日本の女性との間に娘をもうけたことを説明したところ、『少年』が、『シーボルト』は日本で日本の女性と結婚したんだね、と確認してきた為、当時(江戸時代)の結婚というものの説明まで始めることとなり、結婚の際に必要となった書類の説明や、それに関連した宗教、宗派のこと等を説明し、更に、国際結婚が認められるようになった歴史や、それに関連して『ナポレオン法典』やその翻訳にあたった人物等についても説明していくにつれて、話のテーマは、『結婚とは何か?』という根元的なものへと展開し、『通い婚』時代の儀式や、そこから天皇制と一般人民の歴史といった思い掛けない方向へと行ったが、ようやく『シーボルト』と日本の女性との『結婚』に話が戻り、更に、『シーボルト』とその日本の女性との間にできた娘『イネ』が日本初の女医であったことを紹介した。しかし、その『イネ』が医学を学んだのは、父親の『シーボルト』ではなく、『シーボルト』の弟子の『二宮敬作』であり、そうなったのは、『シーボルト』が『イネ』の2歳の時に国外追放となった為であることを説明し、国外追放となったのは、1829年(文政12年)であり、その年はまさに『天満屋』創業の年であったことに触れ、話はようやく『天満屋』の歴史に戻ってきたところ、説明はまた、『天満屋』発祥の地にある寺院『西大寺』の『会陽』というお祭へと派生していっていたが、『少年』は、『天満屋』の創業へと話を戻してきた。しかし、『天満屋』の創業時の業態である『小間物屋』の『コマ』へと、話は再び、派生し、その『コマ』は、朝鮮の『高麗』のことともされているが、『高麗』をどうして『コマ』と読むのか、『少年』は理解できないまま、『高麗』こと『高句麗』は、果たして朝鮮なのか、はたまた中国なのかという命題に飲まれ、更には、そもそも『国』とは何か?『何々人』とは何か、という小学校を失業したばかりの『少年』には難解すぎる命題を突きつけられてしまっていた。


「そうだ。出雲大社のある出雲だ。というか、『古代出雲』は、今の島根県東部と鳥取県の西部辺りだったらしい。その辺りに住んでいたのが、古代出雲族なんだそうだが、彼らは『ツングース』だったんじゃないか、とも云われているらしいと聞いたことがあるんだ」




古代の出雲の人たちが、どうして『ツングース』だった、と分るの?」

「『ズーズー弁』だ」

「は?....『ズーズー弁』って、東北弁の?」

「ああ、一応な」

「ええ?ええ、ええ、ええ?出雲って、中国地方だよ」

「そうだな」

「どうして、中国地方で、東北弁を喋るの?」

「松本清張って、知ってるか?」

「….っ」


聡明な『少年』でもついていくことのできない父親の話の展開に、『少年』が言葉を詰まらせた時、


「どうして、『藤壺』が…?」


バスの中の他の誰にも聞き取れない程度の小さな声が、疑問の呟きを発した。どうやら、広島の進学校である広島県立広島皆実高校の出身で、『ハンカチ大学』の商学部に在籍しているようであるその声の主、いや、今や元素記号を音にしたようなものを発する主は、その時、同じ『青バス』(広電バス)に乗り合わせた美少女、前年(1966年)にテレビ・ドラマ化もされた三浦綾子・原作の『氷点』のヒロインの少女『陽子』を演じる『内藤洋子』に似た美少女を『源氏物語』の『若紫』と見立て、『光源氏』のように、『新手枕』の翌朝に、彼女から恨まれたいというサディスティックでもありマゾヒスティックでもあるような感情を抱いたが、それが単なる感情ではなく、彼の肉体にある『変化』をもたらした結果、元素記号を音にしたようなものを、彼が発したことに気付いたのか、その美少女から睨むような視線向けられ、その視線に耐えきれず、自らの視線を股間に落とし、そこに、『ごめん』と詫びなければけいけない『証拠』を確認したのだったが、何かに、いや、誰かの視線に射抜かれるのを感じた。それが、『証拠』に『証拠』を重ねる働きをしたのであったが、その視線の主を『藤壺』と認識したのであった。『源氏物語』のあの『藤壺』である。


(続く)




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