「魚偏に『祭』と書いたようなんだ」
と、『少年』の父親は、ようやく『少年』の質問に答える。『牛田新町一丁目』のバス停を背にし、家族と共に、自宅へと向っているところであった。
「え?『まつり』?あのお祭りの『祭』?」
『少年』は、頭の中で『鰶』という文字を思い浮かべた。
「そうだ、その『祭』だ」
「まさか、『さんま』が獲れたら、お祭りでもするからじゃないよね?」
「おお、そうだ。まさにその通りなんだ」
と、『少年』の父親は、眼を見開いて、『少年』に答えた。
八丁堀から牛田まで、随分、時間がかかったような気がする、と『少年』は疑問に思ったのであった。八丁堀から牛田まではバスで10分から15分くらいしかかからないのに、そんな時間ではとてもし切れない程のボリュームの話を父親から聞いたことを訝しく思い、その疑問に対し、『少年』の父親は、『アインシュタイン』の『相対性理論』を持ち出し、時間の進み方が遅かったのかもしれない、と答えた。しかし、『少年』はまだ納得できていないからか、『少年』の父親は、『閏年』があること、更には、『閏年』になるはずの年でも『閏年』にならない年もあることから、『1年』という時間は一定ではないと主張したものの、『少年』は、どこか誤魔化されている感を拭えないでいた。そこで、『少年』の父親は、日付変更線を越えることで、『昨日』にも『明日』にも行ける、と説明したかと思ったら、次に、1時間だけだが、日付変更線を越えなくても、『未来』や『過去』に行ける、とまで云い出した。それに対し、『少年』は、未来や過去を絵に描けばいい、そして、その未来を予見するには、自らが未来を創ればいい、と主張し、その慧眼に『少年』の父親は、驚きと共に喜びを表したが、またまた、アメリカやイタリア等は、強制的に1時間先の未来に連れて行かれたり、1時間昔に戻されたりすることがある、それも一瞬にして、と謎のようなことを云い出し、日本でもかつてそうであったことがあり、『4月か5月の第1土曜日の夜中24時に、1時間先の未来に連れて行かれ、9月の第2土曜日の25時になると、1時間昔に戻される』と法律で決められていたと説明した。しかし、『少年』には、『1時間先の未来に連れて行かれ、1時間昔に戻される』その『間』が何であるのか、理解できず、父親に訊いたところ、『サンマータイム』という返事があり、そこから『秋刀魚』という漢字の由来、『佐藤春夫』の詩『秋刀魚の歌』へと話は派生していっていたが、
『さんま』を漢字でどう書くのか、という質疑に戻り、『少年』の父親は、ようやく、『さんま』を魚偏ではどう書くのか、説明したのではあったが…
「江戸時代、『さんま』が沢山獲れて、市場に並ぶと、お祭り騒ぎになったことから、魚偏に『祭』と書く漢字をと『さんま』としたようなんだけどな…」
と、『少年』の父親の言葉に含みのあることを、慧眼な『少年』は見逃さない。
「え?『さんま』を漢字で魚偏に『祭』と書くようにしたんじゃなくって、魚偏に『祭』と書く漢字をと『さんま』としたの?」
「おお、気付いたか」
「それって、先に、魚偏に『祭』と書く漢字があったということになるんじゃないの」
「そうだな」
「じゃあ、魚偏に『祭』と書く漢字は、元々は、『さんま』じゃなくって、別の意味、というか、読み方があったの?あ、魚偏だから、ひょっとして別の魚のことだったの?」
(続く)
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