2022年5月24日火曜日

【牛田デラシネ中学生】変態の作られ方[その238]

 


「1957年3月14日だよ。ボクは、2歳5ヶ月と14日だったよ」


と、小学校を卒業したばかりの『少年』は、その後の人生の彼を象徴する正確無比さを既に見せた。広島市の『牛田新町一丁目』のバス停を背にし、家族と共に、自宅へと向っているところであった。


「おお、あの日かあ」


『少年』の父親も視線を虚空に泳がせ、何かを思い出すようであった。


その日(1967年に、山口県宇部市から広島市に引っ越して来た日)、八丁堀から牛田まで、随分、時間がかかったような気がする、と『少年』は疑問に思ったのであった。八丁堀から牛田まではバスで10分から15分くらいしかかからないのに、そんな時間ではとてもし切れない程のボリュームの話を父親から聞いたことを訝しく思い、その疑問に対し、『少年』の父親は、『アインシュタイン』の『相対性理論』を持ち出し、時間の進み方が遅かったのかもしれない、と答えた。しかし、『少年』はまだ納得できていないからか、『少年』の父親は、『閏年』があること、更には、『閏年』になるはずの年でも『閏年』にならない年もあることから、『1年』という時間は一定ではないと主張したものの、『少年』は、どこか誤魔化されている感を拭えないでいた。そこで、『少年』の父親は、日付変更線を越えることで、『昨日』にも『明日』にも行ける、と説明したかと思ったら、次に、1時間だけだが、日付変更線を越えなくても、『未来』や『過去』に行ける、とまで云い出した。それに対し、『少年』は、未来や過去を絵に描けばいい、そして、その未来を予見するには、自らが未来を創ればいい、と主張し、その慧眼に『少年』の父親は、驚きと共に喜びを表したが、またまた、アメリカやイタリア等は、強制的に1時間先の未来に連れて行かれたり、1時間昔に戻されたりすることがある、それも一瞬にして、と謎のようなことを云い出し、日本でもかつてそうであったことがあり、『4月か5月の第1土曜日の夜中24時に、1時間先の未来に連れて行かれ、9月の第2土曜日の25時になると、1時間昔に戻される』と法律で決められていたと説明した。しかし、『少年』には、『1時間先の未来に連れて行かれ、1時間昔に戻される』その『間』が何であるのか、理解できず、父親に訊いたところ、『サンマータイム』という返事があり、そこから『秋刀魚』という漢字の由来や、『さんま』は一文字の漢字では、魚偏に『祭』と書くこと等、『さんま』の漢字談義へと派生していっていたが、『少年』は、『サンマータイム』とは何か、という疑問に立ち戻り、『サンマータイム』を定めた法律は、正式には、『夏時刻法』と、『少年』の父親は、説明した。ところが、『少年』と『少年』の父親の会話は、そこから、『サンマー』が、実は『サマー』と発音するものであることから、英語の発音談義への移って行っていたのに、父親は、映画『ローマの休日』、そして、その主演女優『オードリー・ヘップバーン』や『ローマ字』の『ヘボン式』へと、また話を派生させていっていた。それをようやく、『少年』は、『サンマータイム』へと話を戻したが、『少年』の父親は、今度は、『キャサリーン・ヘップバーン』主演の映画『旅情』の原題は、『サマータイム』だと云いながらも、アメリカでは『サマータイム』のことを『デイライト・セイビング・タイム』(Daylight Saving Time)というのだ、と説明し、更には、『旅情』の原題である『サマータイム』は、『サマータイム』のことではなく、『サマー』という名前の人とも関係はないと、『少年』を混乱の渦の中で目眩を起こす程の状態とし、その『サマータイム』は、『夏時刻』の『サマータイム』ではなく、『夏』の『時』、『日々』を過ごす、といった感じのする言葉で、感覚的というか感傷的、感情的な装いを持つもの、という説明をしていた。その説明自体、感傷的なものであったように、後年(2021年になって)、少年ではなくなっていた『少年』は、思い出し、更に、父親の説明には、ある謎、もしくは予見が込められていたようにも感じたのである。だが、その時は(1967年)、父親が想像を超えたことを云い出だすとは、思いもせず、父親が使った大人びた言葉を使って、『濃密』な時間を過ごすと、人間は、時間を長く感じるものなんだね、と問うたところ、父親は、『時間が止る』という、まるで、テレビ・ドラマ『ふしぎな少年』の世界のようなことを云い、続けて、『ビッグバン』という、『少年』が聞いたことのない言葉を持ち出し、それは、宇宙全体で起きた爆発、といえばそうかもしれないが、それも違う、と『少年』をカオスに落とし込んでしまった。そして、それに留まらず、宇宙は『ビッグバン』ででき、『ビッグバン』の前には何もなかった、と父親は、云い出し、『少年』に『少年』が生れる前のことを問い質してきたが、『少年』は、自分の人間としての最初の記憶のある日のことを父親に返したのであった。


「妹ができて嬉しかったんだ」


1957年3月14日は、イモートン・トンミーの生れた日であったのだ。


「父さんも、トンちゃんが生まれてきて、嬉しかった」

「あの時、ボク、家のどの部屋にいたかも覚えているよ」


当時(1950年代である)、お産は、自宅でお産婆さんに取り上げてもらうのが普通であった。


「おお、春日原(かすがばる)の家だな」

「うん!ボク、春日原にいた頃のこと、よーく覚えているよ。今だって、青の家の見取り図、描けるし、家の周りのことだって、たくさん覚えているよ!ウチの前には、外人さんが住んでたでしょ?」

「ああ、『米軍ハウス』だな」


『少年』の父親は、何故か、眉間に皺を寄せた。


福岡県の春日原は、戦後から米軍の板付基地の住宅地区になっており、米兵とその家族は、その住宅地区に入るまで周辺に作られた『米軍ハウス』と呼ばれた仮の住まいに住んでいたのである。


「外人さんの家、平家だったよね。床か天井近くまでの窓があって、青い網戸がついてたと思う。その窓に換気扇がついてて、一日中、夜中も回っていたでしょ?」

「ああ、そうだったかなあ….よーく覚えているなあ」

「外人さんの奥さんが、ウチに、お婆さんちゃんがボクをタライの湯で風呂に入れるのを見学に来たことだって、覚えてるよ」




「へええ、そんなことあったか。父さんが仕事に行っている間に、そんな平和なことがあったのか」

「平和?」


『少年』は、父親の云わんとすることを測りかねた。



(続く)




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