2022年5月17日火曜日

【牛田デラシネ中学生】変態の作られ方[その231]

 


「映画の『Summertime』を日本語の題名として『夏』とすると、それは違っていただろうと思う」


と、『少年』の父親は、映画『旅情』の原題が『Summertime』であることの意味の説明を続けた。『牛田新町一丁目』のバス停を背にし、家族と共に、自宅へと向っているところであった。


「だって、アメリカ人女性が、イタリアのベニスを旅行中に、男の人を好きになったけど、その人には奥さんがいた、っていう、ちょっと切ない話のようだからな」


と、『少年』の父親は、その『切なさ』が『少年』にはまだ理解の及ぶものではないことは分ってはいたが、そう説明せざるを得なかた。


八丁堀から牛田まで、随分、時間がかかったような気がする、と『少年』は疑問に思ったのであった。八丁堀から牛田まではバスで10分から15分くらいしかかからないのに、そんな時間ではとてもし切れない程のボリュームの話を父親から聞いたことを訝しく思い、その疑問に対し、『少年』の父親は、『アインシュタイン』の『相対性理論』を持ち出し、時間の進み方が遅かったのかもしれない、と答えた。しかし、『少年』はまだ納得できていないからか、『少年』の父親は、『閏年』があること、更には、『閏年』になるはずの年でも『閏年』にならない年もあることから、『1年』という時間は一定ではないと主張したものの、『少年』は、どこか誤魔化されている感を拭えないでいた。そこで、『少年』の父親は、日付変更線を越えることで、『昨日』にも『明日』にも行ける、と説明したかと思ったら、次に、1時間だけだが、日付変更線を越えなくても、『未来』や『過去』に行ける、とまで云い出した。それに対し、『少年』は、未来や過去を絵に描けばいい、そして、その未来を予見するには、自らが未来を創ればいい、と主張し、その慧眼に『少年』の父親は、驚きと共に喜びを表したが、またまた、アメリカやイタリア等は、強制的に1時間先の未来に連れて行かれたり、1時間昔に戻されたりすることがある、それも一瞬にして、と謎のようなことを云い出し、日本でもかつてそうであったことがあり、『4月か5月の第1土曜日の夜中24時に、1時間先の未来に連れて行かれ、9月の第2土曜日の25時になると、1時間昔に戻される』と法律で決められていたと説明した。しかし、『少年』には、『1時間先の未来に連れて行かれ、1時間昔に戻される』その『間』が何であるのか、理解できず、父親に訊いたところ、『サンマータイム』という返事があり、そこから『秋刀魚』という漢字の由来や、『さんま』は一文字の漢字では、魚偏に『祭』と書くこと等、『さんま』の漢字談義へと派生していっていたが、『少年』は、『サンマータイム』とは何か、という疑問に立ち戻り、『サンマータイム』を定めた法律は、正式には、『夏時刻法』と、『少年』の父親は、説明した。ところが、『少年』と『少年』の父親の会話は、そこから、『サンマー』が、実は『サマー』と発音するものであることから、英語の発音談義への移って行っていたのに、父親は、映画『ローマの休日』、そして、その主演女優『オードリー・ヘップバーン』や『ローマ字』の『ヘボン式』へと、また話を派生させていっていた。それをようやく、『少年』は、『サンマータイム』へと話を戻したが、『少年』の父親は、今度は、『キャサリーン・ヘップバーン』主演の映画『旅情』の原題は、『サマータイム』だと云いながらも、アメリカでは『サマータイム』のことを『デイライト・セイビング・タイム』(Daylight Saving Time)というのだ、と説明し、更には、『旅情』の原題である『サマータイム』は、『サマータイム』のことではなく、『サマー』という名前の人とも関係はないと、『少年』を混乱の渦の中で目眩を起こす程の状態とし、その『サマータイム』は、『夏時刻』の『サマータイム』ではなく、『夏』の『時』、『日々』を過ごす、といった感じのする言葉で、感覚的というか感傷的、感情的な装いを持つもの、という説明をしていた。


「敢えて云うと、『過ごした夏の日々』だろうし、映画のストーリーからして、むしろ、『旅情』という邦題、日本語の題名の方が、適したものなんじゃないかと思う。『夏』という題名だと、叙情も何も感じられないし、原題の『サマータイム』のまま日本で公開すると、『夏時刻』のことと勘違いされたかもしれないしな」


何かを思い出すようにそう云った『少年』の父親は、その時(1967年である)、およそ10年程後に(1978年に)、日本のコーラス・グループ『サーカス』が、『Mr.サマータイム』という曲を発表することになることを知らなかった。


そして、『Mr.サマータイム』は、実は、元はフランスの音楽グループ『ミッシェル・フュガン&ビッグ・バザール』(Michel Fugain & Big Bazar)の1972年発表の『Une belle histoire』という楽曲(作曲:Michel FUGAIN、作詞:Pierre DELANOE)に日本語の詩(作詞:竜真知子)を付けたものであり、『Une belle histoire』は、『美しい物語』とでも訳せばいいのであろうが、その題名にも、フランス語の詩にも『夏』(フランス語では、『été』)はなく、邦題が、『Mr.サマータイム』となったのは、カネボウ化粧品の夏のCMソングとして使われることになったかららしいことも、勿論、『少年』の父親は、その時、知るはずもなかった。


しかし……


「『Une belle histoire』と『Mr.サマータイム』のことを、もし、父が、その時、知っていたら、こう云ったかもしれない……」


『少年』は、後年(2021年のことだから、『少年』はその時、もう少年ではなかったが)、シンガーソングライターの『大和田慧』が、1980年代を中心に名曲をカバーするプロジェクト『Tokimeki Records』で、『Mr.サマータイム』をカバーし、そこから『Mr.サマータイム』と『Une belle histoire』との関係を知った時、そう思った。


「『Une belle histoire』は、映画『Summertime』の邦題『旅情」に通じるものがある。『過ごした夏の日々』に思いを馳せる詩だからな」


と云うであろう父親の像が脳裡に浮かんできた。


『Une belle histoire』には、勿論、『夏時刻』としての『サマータイム』も、『過ごした夏の日々』としての『サマータイム』も登場しないが、『ヴァカンスの高速道の道端で』(au bord du chemin Sur l'autoroute des vacances)という表現があるのだ。『ヴァカンス』、つまり、夏に、そこで、2人は出会い、語り合い、別れるのである。




そして、


「『Mr.サマータイム』は、言い得て妙な題名だ。ただ『サマータイム』とすると、『夏時刻』のことと勘違いされたかもしれないが、『Mr.』がつくことで、それが『夏時刻』のことではなく、そう、『過ごした夏の日々』に関係する男とのことと想像させるからなあ」


と、愁いを込めた云い方をするであろう父親の様子も思い描いた時、少年ではなくなっていた『少年』は、1967年のあの日、父親が『少年』に向け、『サマータイム』を持ち出して来たのは、深謀遠慮であったのか、或いは、偶然であったのだろうか、と思うのであった。



(続く)




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