「『コハダ』って、知っているか?」
と、『少年』の父親は、少し笑みを浮かべながら、そう云った。『牛田新町一丁目』のバス停を背にし、家族と共に、自宅へと向っているところであった。
「確かあ…お寿司の魚じゃない?なんか、銀色の?」
と、『少年』の方は、眉間に少しシワを作りながら、そう云った。
「そうだ。酢と塩とでしめて握るやつだ。ああ、『コハダ』は旨い!」
「ボクは、『穴子』が好きだなあ。甘くって」
宇部市琴芝時代、と云っても、前日までのことであったが、『少年』は、両親、妹と共に、父親が仕事関係で使っていた寿司屋によく連れて行ってもらった。その時も、『穴子』を好んで食べた。また、父親が、その寿司屋で買ってほろ酔い加減で、持ち帰る折詰の寿司でも、『穴子』を好んで食べた。
「『鯵』も旨いぞ」
「『イクラ』だって、美味しいよ。『卵』も好きだなあ。お寿司屋さんの『卵』って、なんか違うよね。あ….いや、魚偏に『祭』と書く漢字は、『コハダ』だったの?でも、どうして?」
と、『少年』は、頭を振って、考えから寿司を消し、我を取り戻し、父親に訊いた。
八丁堀から牛田まで、随分、時間がかかったような気がする、と『少年』は疑問に思ったのであった。八丁堀から牛田まではバスで10分から15分くらいしかかからないのに、そんな時間ではとてもし切れない程のボリュームの話を父親から聞いたことを訝しく思い、その疑問に対し、『少年』の父親は、『アインシュタイン』の『相対性理論』を持ち出し、時間の進み方が遅かったのかもしれない、と答えた。しかし、『少年』はまだ納得できていないからか、『少年』の父親は、『閏年』があること、更には、『閏年』になるはずの年でも『閏年』にならない年もあることから、『1年』という時間は一定ではないと主張したものの、『少年』は、どこか誤魔化されている感を拭えないでいた。そこで、『少年』の父親は、日付変更線を越えることで、『昨日』にも『明日』にも行ける、と説明したかと思ったら、次に、1時間だけだが、日付変更線を越えなくても、『未来』や『過去』に行ける、とまで云い出した。それに対し、『少年』は、未来や過去を絵に描けばいい、そして、その未来を予見するには、自らが未来を創ればいい、と主張し、その慧眼に『少年』の父親は、驚きと共に喜びを表したが、またまた、アメリカやイタリア等は、強制的に1時間先の未来に連れて行かれたり、1時間昔に戻されたりすることがある、それも一瞬にして、と謎のようなことを云い出し、日本でもかつてそうであったことがあり、『4月か5月の第1土曜日の夜中24時に、1時間先の未来に連れて行かれ、9月の第2土曜日の25時になると、1時間昔に戻される』と法律で決められていたと説明した。しかし、『少年』には、『1時間先の未来に連れて行かれ、1時間昔に戻される』その『間』が何であるのか、理解できず、父親に訊いたところ、『サンマータイム』という返事があり、そこから『秋刀魚』という漢字の由来、『佐藤春夫』の詩『秋刀魚の歌』へと話は派生していっていたが、
『さんま』を漢字でどう書くのか、という質疑に戻り、『少年』の父親は、ようやく、『さんま』を一文字の漢字では、魚偏に『祭』と書くことを説明したものの、どうやら、その漢字は、本来、別の魚のことを指しているようであったのだ。
「いや、『コハダ』じゃないんだ」
「え???」
「『コノシロ』なんだよ、魚偏に『祭』と書く魚は」
「じゃあ、何故、話に『コハダ』が出てくるの?」
という『少年』の言葉には、若干、怒りが含まれているようでもあった。
(続く)
0 件のコメント:
コメントを投稿