2022年5月28日土曜日

【牛田デラシネ中学生】変態の作られ方[その242]

 


「ビエールは、『時間』を見たことはあるのか?」


と、『少年』の父親は、<『時間』って、本当に存在するのか?>という問いに続けて、『少年』の心臓を射抜くような質問をする。広島市の『牛田新町一丁目』のバス停を背にし、家族と共に、自宅へと向っているところであった。


「へっ?!.....それは、時計を見れば」


『少年』は、そう答えるしかない。


その日(1967年に、山口県宇部市から広島市に引っ越して来た日)、八丁堀から牛田まで、随分、時間がかかったような気がする、と『少年』は疑問に思ったのであった。八丁堀から牛田まではバスで10分から15分くらいしかかからないのに、そんな時間ではとてもし切れない程のボリュームの話を父親から聞いたことを訝しく思い、その疑問に対し、『少年』の父親は、『アインシュタイン』の『相対性理論』を持ち出し、時間の進み方が遅かったのかもしれない、と答えた。しかし、『少年』はまだ納得できていないからか、『少年』の父親は、『閏年』があること、更には、『閏年』になるはずの年でも『閏年』にならない年もあることから、『1年』という時間は一定ではないと主張したものの、『少年』は、どこか誤魔化されている感を拭えないでいた。そこで、『少年』の父親は、日付変更線を越えることで、『昨日』にも『明日』にも行ける、と説明したかと思ったら、次に、1時間だけだが、日付変更線を越えなくても、『未来』や『過去』に行ける、とまで云い出した。それに対し、『少年』は、未来や過去を絵に描けばいい、そして、その未来を予見するには、自らが未来を創ればいい、と主張し、その慧眼に『少年』の父親は、驚きと共に喜びを表したが、またまた、アメリカやイタリア等は、強制的に1時間先の未来に連れて行かれたり、1時間昔に戻されたりすることがある、それも一瞬にして、と謎のようなことを云い出し、日本でもかつてそうであったことがあり、『4月か5月の第1土曜日の夜中24時に、1時間先の未来に連れて行かれ、9月の第2土曜日の25時になると、1時間昔に戻される』と法律で決められていたと説明した。しかし、『少年』には、『1時間先の未来に連れて行かれ、1時間昔に戻される』その『間』が何であるのか、理解できず、父親に訊いたところ、『サンマータイム』という返事があり、そこから『秋刀魚』という漢字の由来や、『さんま』は一文字の漢字では、魚偏に『祭』と書くこと等、『さんま』の漢字談義へと派生していっていたが、『少年』は、『サンマータイム』とは何か、という疑問に立ち戻り、『サンマータイム』を定めた法律は、正式には、『夏時刻法』と、『少年』の父親は、説明した。ところが、『少年』と『少年』の父親の会話は、そこから、『サンマー』が、実は『サマー』と発音するものであることから、英語の発音談義への移って行っていたのに、父親は、映画『ローマの休日』、そして、その主演女優『オードリー・ヘップバーン』や『ローマ字』の『ヘボン式』へと、また話を派生させていっていた。それをようやく、『少年』は、『サンマータイム』へと話を戻したが、『少年』の父親は、今度は、『キャサリーン・ヘップバーン』主演の映画『旅情』の原題は、『サマータイム』だと云いながらも、アメリカでは『サマータイム』のことを『デイライト・セイビング・タイム』(Daylight Saving Time)というのだ、と説明し、更には、『旅情』の原題である『サマータイム』は、『サマータイム』のことではなく、『サマー』という名前の人とも関係はないと、『少年』を混乱の渦の中で目眩を起こす程の状態とし、その『サマータイム』は、『夏時刻』の『サマータイム』ではなく、『夏』の『時』、『日々』を過ごす、といった感じのする言葉で、感覚的というか感傷的、感情的な装いを持つもの、という説明をしていた。その説明自体、感傷的なものであったように、後年(2021年になって)、少年ではなくなっていた『少年』は、思い出し、更に、父親の説明には、ある謎、もしくは予見が込められていたようにも感じたのである。だが、その時は(1967年)、父親が想像を超えたことを云い出だすとは、思いもせず、父親が使った大人びた言葉を使って、『濃密』な時間を過ごすと、人間は、時間を長く感じるものなんだね、と問うたところ、父親は、『時間が止る』という、まるで、テレビ・ドラマ『ふしぎな少年』の世界のようなことを云い、続けて、『ビッグバン』という、『少年』が聞いたことのない言葉を持ち出し、それは、宇宙全体で起きた爆発、といえばそうかもしれないが、それも違う、と『少年』をカオスに落とし込んでしまった。そして、それに留まらず、宇宙は『ビッグバン』ででき、『ビッグバン』の前には何もなかった、と父親は、云い出し、『少年』に『少年』が生れる前のことを問い質してきたが、『少年』は、自分の人間としての最初の記憶のある日のことを父親に返した。それは、1957年3月14日、『少年』の妹が、福岡県の春日原(かすがばる)で生れた日であり、そのことから、春日原にあった米軍兵士とその家族の住む住居であった『米軍ハウス』のこと、更には、『ベトナム戦争』、春日原近くにあった米軍の『板付基地』、『朝鮮戦争』。そして、日本の戦争への参加へと話は派生していっていた。しかし、聡明な『少年』の父親は、『少年』の当初の疑問を忘れず、『時間』へと話のテーマを戻してきたものの、『時間』の存在を否定してきたのだ。


「時計は、針が1秒1秒進むところを見ることはできるが、それが、『時間』なのか?」

「そうだと思うけど」

「それは、あくまで時計の針が進んでいるところ見ているだけじゃないのか?ゼンマイが止まって、時計の針が止まったら、『時間』も止まるのか?」

「そんなああ」

「時計を見ないと、『時間』は見れないのか?」

「見れなくっても、『時間』はあるよ」

「見れないのに、どうして、『時間』があることが分るんだ?」

「だってえ……そう、人間って、段々、年寄りになっていくじゃない」

「老化が、『時間』の存在の証拠なのか?」

「『時間』が経つから老けていくんでしょ?」

「では、人間は、1秒1秒、老けていっているんだな?」

「そうだよ」

「でも、今、父さんは、ビエールを見ているが、ビエールは老けていっているようには見えないぞ」

「それは、1秒だったり1分だったりするからだよ。そんなに一気に年をとったりはしないよ」

「1秒後、1分後には、そんなに年をとらないとすると、1秒後のまた1秒後、1分後のまた1分後も、人間はそんなに年をとらないんじゃないのか?それが重なっていったら、いくら経っても人間は年をとらないんじゃないのか?」

「1秒、1分では、目に見えたようには年をとらないだけで、やっぱり、少しずつ年をとっていっているんだと思う」

「では、仮に、『時間』が本当にあるとしたら、どうして、人によって老けのが早かったり遅かったりするんだ?60歳台で、もうかなりお爺さんみたいな人もいるし、70歳を超えても、とてもそうは見えない程、元気で若々しい人もいるじゃないか。母さんなんか、今だって、女学生の頃のように、若くてピチピチだぞ」




と、『少年』の父親は、妻の方に顔を寄せ、妻の体臭を嗅ぐようにした。




(続く)




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