「(ふぁ~あ…)」
ビエール少年の顔に自らの顔を近付けた隣席(ビエール少年の左隣)の女子生徒は、鼻を上向け、眼を泳がせた。1967年4月、広島市立牛田中学校1年X組の教室であった。体育館の『思道館』での入学式を終えたばかりである。
「(なんじゃろう?)」
酔ったようになった頭の中で疑問が渦巻いた。女子生徒が嗅いだのは、口を大きく開けたままにしていたビエール少年の口臭であった。
「(ええ、匂いじゃあ。あ!これ、アメリカの匂いなん?)」
それは、アメリカとはある意味、真逆な和風の最たるものであった。ビエール少年が、その日の朝食でも食した納豆の臭いであったが、納豆を食べる習慣のない広島の女子生徒には、嗅いだことのないものであり、ビエール少年の美貌が、腐臭といってもいいものを芳しい匂いのように、女子生徒の嗅覚を狂わせたのであったかもしれない。
「三菱電機の冷蔵庫だけど、大きいといえば大きいけどお…」
ビエール少年は、ビエール少年の口臭に酔ってしまい、自らが質問したことも忘れた隣席(左隣)の女子生徒に律儀に答えた。主旨は不明だが、『アンタんとこの冷蔵庫、大きいいんじゃろ?』と訊かれていたのだ。
「大きい、小さいは、その比較対象とするものにも依るし、要は、何を基準に大小を見るかの問題だと思うけどね」
と、ビエール少年は、忘我の女子生徒に対して、というよりも、自分に対してそう答えた。曖昧な質問に対しての追求を忘れない、前提があやふやなものをそのままとしない父親の薫陶を受けたていたのだ。
「ええー!?三菱電機には、冷蔵庫もあるん?」
ビエール少年の言葉に、もう一方の隣席(右隣)の男子生徒が、身を乗り出すように反応してきた。
「そりゃ、勿論、あるさ」
ビエール少年は、広島っ子たちの不思議な質問の連射に戸惑いながらも、当然の回答を返した。
(続く)
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