2022年5月19日木曜日

【牛田デラシネ中学生】変態の作られ方[その233]

 


「ビエール、八丁堀から牛田まで、随分、時間がかかったような気がしているんだろう?」


と、『少年』の父親は、『少年』が待ち望んでいた当初の疑問へと話題を戻してきた。『牛田新町一丁目』のバス停を背にし、家族と共に、自宅へと向っているところであった。


「うん。そうだよ。バスで10分から15分くらいの間のはずなのに、父さんは、とてもそんな短い時間ではできない程、沢山のことをボクに教えてくれた」


という『少年』の言葉には、素直な感謝が込められていた。


その日(1967年に、山口県宇部市から広島市に引っ越して来た日)、八丁堀から牛田まで、随分、時間がかかったような気がする、と『少年』は疑問に思ったのであった。八丁堀から牛田まではバスで10分から15分くらいしかかからないのに、そんな時間ではとてもし切れない程のボリュームの話を父親から聞いたことを訝しく思い、その疑問に対し、『少年』の父親は、『アインシュタイン』の『相対性理論』を持ち出し、時間の進み方が遅かったのかもしれない、と答えた。しかし、『少年』はまだ納得できていないからか、『少年』の父親は、『閏年』があること、更には、『閏年』になるはずの年でも『閏年』にならない年もあることから、『1年』という時間は一定ではないと主張したものの、『少年』は、どこか誤魔化されている感を拭えないでいた。そこで、『少年』の父親は、日付変更線を越えることで、『昨日』にも『明日』にも行ける、と説明したかと思ったら、次に、1時間だけだが、日付変更線を越えなくても、『未来』や『過去』に行ける、とまで云い出した。それに対し、『少年』は、未来や過去を絵に描けばいい、そして、その未来を予見するには、自らが未来を創ればいい、と主張し、その慧眼に『少年』の父親は、驚きと共に喜びを表したが、またまた、アメリカやイタリア等は、強制的に1時間先の未来に連れて行かれたり、1時間昔に戻されたりすることがある、それも一瞬にして、と謎のようなことを云い出し、日本でもかつてそうであったことがあり、『4月か5月の第1土曜日の夜中24時に、1時間先の未来に連れて行かれ、9月の第2土曜日の25時になると、1時間昔に戻される』と法律で決められていたと説明した。しかし、『少年』には、『1時間先の未来に連れて行かれ、1時間昔に戻される』その『間』が何であるのか、理解できず、父親に訊いたところ、『サンマータイム』という返事があり、そこから『秋刀魚』という漢字の由来や、『さんま』は一文字の漢字では、魚偏に『祭』と書くこと等、『さんま』の漢字談義へと派生していっていたが、『少年』は、『サンマータイム』とは何か、という疑問に立ち戻り、『サンマータイム』を定めた法律は、正式には、『夏時刻法』と、『少年』の父親は、説明した。ところが、『少年』と『少年』の父親の会話は、そこから、『サンマー』が、実は『サマー』と発音するものであることから、英語の発音談義への移って行っていたのに、父親は、映画『ローマの休日』、そして、その主演女優『オードリー・ヘップバーン』や『ローマ字』の『ヘボン式』へと、また話を派生させていっていた。それをようやく、『少年』は、『サンマータイム』へと話を戻したが、『少年』の父親は、今度は、『キャサリーン・ヘップバーン』主演の映画『旅情』の原題は、『サマータイム』だと云いながらも、アメリカでは『サマータイム』のことを『デイライト・セイビング・タイム』(Daylight Saving Time)というのだ、と説明し、更には、『旅情』の原題である『サマータイム』は、『サマータイム』のことではなく、『サマー』という名前の人とも関係はないと、『少年』を混乱の渦の中で目眩を起こす程の状態とし、その『サマータイム』は、『夏時刻』の『サマータイム』ではなく、『夏』の『時』、『日々』を過ごす、といった感じのする言葉で、感覚的というか感傷的、感情的な装いを持つもの、という説明をしていた。その説明自体、感傷的なものであったように、後年(2021年になって)、少年ではなくなっていた『少年』は、思い出し、更に、父親の説明には、ある謎、もしくは予見が込められていたようにも感じたのである。だが、その時は(1967年)、父親が想像を超えたことを云い出だすとは、思いもせず、父親が使った大人びた言葉を、こう使うのであった。


「でも、そう、『濃密」っていうのかなあ、とっても濃い時間を過ごすと、人間って、時間を長く感じるものなんだよね?」

「いや、そうとも限らん。その間、時間が止っていたかもしれん。いや、そもそも『時間』なんてあるのか?」

「そんなあ。時間が止る、なんて、『サブタン』じゃないんだから」


『少年』は、手塚治虫・原作のNHKテレビ・ドラマ『ふしぎな少年』(1961年から1962年にかけて放映)で、野球の審判のように両手を横に拡げた『セーフ!』のポーズをとって、超能力で時間を止める主人公の少年『サブタン』を思い出していた。




「『サブタン』ってドラマだし、『サブタン』が時間を止めても、他の人たちって、ちょっとグラグラ動いてたから、時間が止った感じじゃなかった」


ドラマ『ふしぎな少年』は、殆ど生放送で、実際に登場人物を動きを止めてみせることはできず、演じる役者たちが、それまで動いていた姿勢を途中でそのままに、そう、例えば、片足立ちして、動きを止め、時間が止ったように見せようとしたのであったが、勿論、完全に静止できる訳がなかった。


「『サブタン』が、時間を止めていた間、他の登場人物にとっては、まあ、グラついていたのは愛嬌として、一応、時間が止っていたんだろう。だが、時間を止めていた間に、『サブタン』は色々な事件を解決していただろう?」

「え?ええ?...うん…だけどお…」


『少年』は戸惑った。『ふしぎな少年』は、あくまでドラマで、架空のお話であり、自分は、父親にそう云ったし、そんなことは、父親には云うまでもなくことであるのに、父親は、その架空のお話のことを真面目に問うてきたのだ。



(続く)




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