「エヴァさん、曲がれるよね?」
列のすぐ前にいた女性が振り向いて云ったその言葉が、今も、エヴァンジェリスト氏の頭の中で響く。
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それは、1982年の冬であった。
エヴァンジェリスト氏は、会社の同期だが4歳年下のオン・ゾーシ氏に、
「エヴァさん、一緒に行ってくれない?」
と依頼され、
「ああ、いいとも!」
と快諾したのであった。
同期でスキーに行くにあたり、皆はスキー場には、夜行バスで行くことになったが、オン・ゾーシ氏は、ニキ・ウエ子さんとクルマで行きたかった。
二人は、付き合っていたが、秘密にしていたのだ。しかし、オン・ゾーシ氏は、エヴァンジェリスト氏にはその秘密を明かし、同乗、同行を依頼した。
オン・ゾーシ氏は、エヴァンジェリスト氏が、打ち明けられた秘密を他人に明かすようなことをする男ではないことを知っていた。
エヴァンジェリスト氏が、『曲がったことが嫌いな男』であることを知っていた。
上池袋の交差点近くにある薬局前、公衆電話ボックス横に、茶色のカジュアルなコートを着た男が、コートのポケットに両手を入れ、肩をすぼめて立っていた。
「エヴァンジェリストさん、寒いわねえ。そんなとこ立って、どうしたの?」
薬局のおばさんが、声を掛けてきた。
「あ、今晩は。スキーに行くんです」
「へええ、いいわねえ。若い人は」
「初めてなんです」
「あーら、じゃあ、気をつけないとね」
「え?」
「でも、楽しんでらっしゃい」
「はい」
「体を痛めたら、また湿布でも貼ってあげるわ」
そう、エヴァンジェリスト氏は、薬局のおばさんに湿布を貼ってもらったことがあったのだ………
下宿で論文を書いている時、首筋から背中にかけて激痛が走った。
下宿の部屋は、3.75畳と狭く、敷きぱなっしの布団を座布団がわりにその上に座り、布団の横に置いた小さな炬燵に足を入れ、炬燵を机に論文を書いていた。
参考資料は、自身の体の周囲の布団の上に置き、論文を書き進めながら、時々、体を捻って資料をとっていた。
エヴァンジェリスト氏は、論文の対象作家であるFrançois MAURIACへの思い入れが強かった。François MAURIACの懊悩を自身の内に、共有しているような気がしていた。
体の周囲に置いた資料を手に取り、顎に手を当て、一人前の研究者然と資料に目を通した。
論文執筆は、幾日も続き、体の周囲に置いた資料を取る為、体を捻ることも数を重ねた。
そして、ある時、首筋から背中にかけて激痛が走ったのだ。体をひねる姿勢に無理があったのだ。
エヴァンジェリスト氏は、『曲がったことが嫌いな男』であったが、幾度も体を曲げてしまったのだ。
(続く)
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