2021年2月12日金曜日

バスローブの男[その102=最終回]

 


「アータ、ひょっとして!?」


50歳台半ばとなったマダム・トンミーが、少女のように、両手を頬に当て、叫んだ。マダム・トンミーは、夫が自分でいつもは浸け置き洗いをするバスローブをその日に限って、いきなり洗濯機で洗っていることに、夫に疑問をぶつけながら、何やら思い当ったようであった。


「んん、まあ!」


マダム・トンミーは、口を大きく開けたまま、夫の眼を見据えた。


「…ああ、そうだ、そうだよ!」


妻が何を想像したのかは解らなかったが、ビエール・トンミー氏は咄嗟に、知らぬ妻の想像を肯定した。そして、ビエール・トンミー氏の口は、勝手なことを、まさに口走った。


「今夜、風呂上がり久しぶりに君の部屋に行こうかと思ってね。バスローブを着て。だから、21時間もかけられないのさ」


しかし、ビエール・トンミー氏は、云い終える前に、後悔した。


「えっ!まあああ!本当に!」


マダム・トンミーは、これも少女のように、足をバタバタとさせた。ビエール・トンミー氏は、もう後には退けなくなっていた。


「ああ、そうさ。覚悟してね」


覚悟しないといけないのは、自分の方であることは判っていた。


「じゃ、私も準備しなくっちゃ!」


何を準備するのか、マダム・トンミーは、脱衣場を出て、その前にある階段を軽やかに、スキップするように登っていったが、彼女も知らなかった、『そのこと』を。


「(さしずめ1975年のNWF戦のルー・テーズね)」


マダム・トンミーは、夫が往年の、『原宿の凶器』と呼ばれた頃の夫でないことは判っていた。しかし、夫との久しぶりの『プロレス』の『一戦』に気持ちが高揚していた。夫を、老いたとはいえ、全盛期のアントニオ猪木とNWF世界選手権試合を行った時のルー・テーズに擬えた。


「(凛々しかったわ)」


その試合のルー・テーズの入場時のガウンは、白ではなく茶色だったが、そのガウンを脱ぎ、両手を猪木に差し出し、探るようにしていたが、ヘッドロックに来た猪木をすかさずバックドロップで『投げる』、というより、『落とした』ルー・テースを思い浮かべた。


「(いいわ!落としてえ!)」


しかし、マダム・トンミーは知らなかったのだ。1975年のNWF戦の時のルー・テーズは、59歳であった。しかし、今、ビエール・トンミー氏は、既に66歳になっていたのだ。


「(いいわ!私を落としてえ!)」




バスローブを脱いだ夫の姿は、それをしばらく見ていないマダム・トンミーが思うよりも老いており、それは、もう『原宿の凶器』ではなく、『昔、原宿にいた今は、小器』に過ぎないことを。



(おしまい)





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