2022年5月31日火曜日

【牛田デラシネ中学生】変態の作られ方[その245]

 


「(ふぁ~あ…)」


ビエール少年の顔に自らの顔を近付けた隣席(ビエール少年の左隣)の女子生徒は、鼻を上向け、眼を泳がせた。1967年4月、広島市立牛田中学校1年X組の教室であった。体育館の『思道館』での入学式を終えたばかりである。


「(なんじゃろう?)」


酔ったようになった頭の中で疑問が渦巻いた。女子生徒が嗅いだのは、口を大きく開けたままにしていたビエール少年の口臭であった。


「(ええ、匂いじゃあ。あ!これ、アメリカの匂いなん?)」


それは、アメリカとはある意味、真逆な和風の最たるものであった。ビエール少年が、その日の朝食でも食した納豆の臭いであったが、納豆を食べる習慣のない広島の女子生徒には、嗅いだことのないものであり、ビエール少年の美貌が、腐臭といってもいいものを芳しい匂いのように、女子生徒の嗅覚を狂わせたのであったかもしれない。




「三菱電機の冷蔵庫だけど、大きいといえば大きいけどお…」


ビエール少年は、ビエール少年の口臭に酔ってしまい、自らが質問したことも忘れた隣席(左隣)の女子生徒に律儀に答えた。主旨は不明だが、『アンタんとこの冷蔵庫、大きいいんじゃろ?』と訊かれていたのだ。


「大きい、小さいは、その比較対象とするものにも依るし、要は、何を基準に大小を見るかの問題だと思うけどね」


と、ビエール少年は、忘我の女子生徒に対して、というよりも、自分に対してそう答えた。曖昧な質問に対しての追求を忘れない、前提があやふやなものをそのままとしない父親の薫陶を受けたていたのだ。


「ええー!?三菱電機には、冷蔵庫もあるん?」


ビエール少年の言葉に、もう一方の隣席(右隣)の男子生徒が、身を乗り出すように反応してきた。


「そりゃ、勿論、あるさ」


ビエール少年は、広島っ子たちの不思議な質問の連射に戸惑いながらも、当然の回答を返した。



(続く)




2022年5月30日月曜日

【牛田デラシネ中学生】変態の作られ方[その244]

 


トンミーくん、東京から来たん?」


『少年』、若き日のビーエル・トンミー氏は、隣席の男子生徒から、いきなりそう声をかけられた。


1967年4月、広島市立牛田中学校1年X組の教室であった。体育館の『思道館』での入学式を終えたばかりで、ビエール少年は、その隣席(右隣)の男子生徒の名前も知らなかったが、何故か、隣席の男子生徒は、ビエール少年の名前を知っていた。


「え?違うけど」


と、ビエール少年が、戸惑いながら答えると、


「アメリカから来たんじゃろ?」


今度は、左隣の女子生徒から、そう訊かれた。ビエール少年は、その女子生徒の名前も知らなかった


「は?違うけど」


ビエール少年は、更に戸惑った。


「冷蔵庫、大きいんじゃろ?」


左隣の女子生徒は、更に妙なことを云ってきた。


「は?」


美少年らしくなく、ビエール少年は、口を大きく開けたままにした。




「アンタんとこの冷蔵庫、大きいいんじゃろ?」


左隣の女子生徒は、ビエール少年の顔に自らの顔を近付けた。




(続く)




2022年5月29日日曜日

【牛田デラシネ中学生】変態の作られ方[その243]

 


「もう、またアナタったらあ!」


と、『少年』の父親は、再び、肩を強く叩かれた。『少年』の母親が、彼女について『今だって、女学生の頃のように、若くてピチピチだぞ』と云った夫に抗議したのだ。広島市の『牛田新町一丁目』のバス停を背にし、家族と共に、自宅へと向っているところであった。


「でも、アナタもまだ若々しいわ。時々、困る程、若いんだもの、アナタったら。ふふ」


と、『少年』の母親も、夫の方に顔を寄せ、夫の体臭を嗅ぐようにした。


その日(1967年に、山口県宇部市から広島市に引っ越して来た日)、八丁堀から牛田まで、随分、時間がかかったような気がする、と『少年』は疑問に思ったのであった。八丁堀から牛田まではバスで10分から15分くらいしかかからないのに、そんな時間ではとてもし切れない程のボリュームの話を父親から聞いたことを訝しく思い、その疑問に対し、『少年』の父親は、『アインシュタイン』の『相対性理論』を持ち出し、時間の進み方が遅かったのかもしれない、と答えた。しかし、『少年』はまだ納得できていないからか、『少年』の父親は、『閏年』があること、更には、『閏年』になるはずの年でも『閏年』にならない年もあることから、『1年』という時間は一定ではないと主張したものの、『少年』は、どこか誤魔化されている感を拭えないでいた。そこで、『少年』の父親は、日付変更線を越えることで、『昨日』にも『明日』にも行ける、と説明したかと思ったら、次に、1時間だけだが、日付変更線を越えなくても、『未来』や『過去』に行ける、とまで云い出した。それに対し、『少年』は、未来や過去を絵に描けばいい、そして、その未来を予見するには、自らが未来を創ればいい、と主張し、その慧眼に『少年』の父親は、驚きと共に喜びを表したが、またまた、アメリカやイタリア等は、強制的に1時間先の未来に連れて行かれたり、1時間昔に戻されたりすることがある、それも一瞬にして、と謎のようなことを云い出し、日本でもかつてそうであったことがあり、『4月か5月の第1土曜日の夜中24時に、1時間先の未来に連れて行かれ、9月の第2土曜日の25時になると、1時間昔に戻される』と法律で決められていたと説明した。しかし、『少年』には、『1時間先の未来に連れて行かれ、1時間昔に戻される』その『間』が何であるのか、理解できず、父親に訊いたところ、『サンマータイム』という返事があり、そこから『秋刀魚』という漢字の由来や、『さんま』は一文字の漢字では、魚偏に『祭』と書くこと等、『さんま』の漢字談義へと派生していっていたが、『少年』は、『サンマータイム』とは何か、という疑問に立ち戻り、『サンマータイム』を定めた法律は、正式には、『夏時刻法』と、『少年』の父親は、説明した。ところが、『少年』と『少年』の父親の会話は、そこから、『サンマー』が、実は『サマー』と発音するものであることから、英語の発音談義への移って行っていたのに、父親は、映画『ローマの休日』、そして、その主演女優『オードリー・ヘップバーン』や『ローマ字』の『ヘボン式』へと、また話を派生させていっていた。それをようやく、『少年』は、『サンマータイム』へと話を戻したが、『少年』の父親は、今度は、『キャサリーン・ヘップバーン』主演の映画『旅情』の原題は、『サマータイム』だと云いながらも、アメリカでは『サマータイム』のことを『デイライト・セイビング・タイム』(Daylight Saving Time)というのだ、と説明し、更には、『旅情』の原題である『サマータイム』は、『サマータイム』のことではなく、『サマー』という名前の人とも関係はないと、『少年』を混乱の渦の中で目眩を起こす程の状態とし、その『サマータイム』は、『夏時刻』の『サマータイム』ではなく、『夏』の『時』、『日々』を過ごす、といった感じのする言葉で、感覚的というか感傷的、感情的な装いを持つもの、という説明をしていた。その説明自体、感傷的なものであったように、後年(2021年になって)、少年ではなくなっていた『少年』は、思い出し、更に、父親の説明には、ある謎、もしくは予見が込められていたようにも感じたのである。だが、その時は(1967年)、父親が想像を超えたことを云い出だすとは、思いもせず、父親が使った大人びた言葉を使って、『濃密』な時間を過ごすと、人間は、時間を長く感じるものなんだね、と問うたところ、父親は、『時間が止る』という、まるで、テレビ・ドラマ『ふしぎな少年』の世界のようなことを云い、続けて、『ビッグバン』という、『少年』が聞いたことのない言葉を持ち出し、それは、宇宙全体で起きた爆発、といえばそうかもしれないが、それも違う、と『少年』をカオスに落とし込んでしまった。そして、それに留まらず、宇宙は『ビッグバン』ででき、『ビッグバン』の前には何もなかった、と父親は、云い出し、『少年』に『少年』が生れる前のことを問い質してきたが、『少年』は、自分の人間としての最初の記憶のある日のことを父親に返した。それは、1957年3月14日、『少年』の妹が、福岡県の春日原(かすがばる)で生れた日であり、そのことから、春日原にあった米軍兵士とその家族の住む住居であった『米軍ハウス』のこと、更には、『ベトナム戦争』、春日原近くにあった米軍の『板付基地』、『朝鮮戦争』。そして、日本の戦争への参加へと話は派生していっていた。しかし、聡明な『少年』の父親は、『少年』の当初の疑問を忘れず、『時間』へと話のテーマを戻してきたものの、『時間』の存在というものを否定し、老化を『時間』に依るものとする『少年』に対し、自分の妻は年を経ても未だ若いと主張したのであった。


「年をとって見えたり、年寄りも若くにえるのは、人によって体の状態が違うからだと思う」


睦言のような両親のやり取りもものかは、『少年』は、父親にそう反論した。


「しかし、一気に白髪頭になって老け込んでしまう人もいるぞ」

「それは、相当ショックなことがあったからじゃないのかなあ」

「しかし、老けたことに変りはないだろう。としたらだ、その人にとっては、『時間』が物凄い速さで進んだことになるんじゃないのか?」





「いや、それって、やっぱり、すごーいショックなことがあったからだよお」

「だとしたら、そう、老化が個人の体力や体調によって異ってくるものだとしたら、老化は、『時間』の存在を証明するものとはならないだろう。少なくとも、『時間』の速度は一定ではないことをむしろ証明しているのではないのか」

「『特殊相対性理論』だから?」


『少年』は、父親の説明から得た知識を既に自分のものとしていた。



(参照:【牛田デラシネ中学生】変態の作られ方[その206]



「そうだな。それに、もう説明したように、『閏年』があったり、『閏年』でありそうでない年があったり、日付変更線なんかで地域によって時差があったりで、『時間』って、速度だけではなく、一定なもの、一様なもののようで、実は一定でも一様でもない。ある一人の人間にとっても、自分の生れる前に『時間』はなく、死後にも多分、『時間』はないんだ。『時間』なんて、ただの決め事、もしくは、人間の意識が定めたものに過ぎないかもしれないんだ」

「だから、八丁堀からここまで、他の人には、10分か15分くらいだったはずで、でも、父さんとボクには、もっともっと長い時間だった、ということなの?」

「バス停から、今度の新しいウチまでも、普通だったら、歩いて3-4分なんだぞ」

「あ!...でも、ボク、バスを降りでからももう随分、父さんと話してるよね!でも、まだウチに着かない。ここは今…」


と、ようやく自分が今どこにいるか確認しようと、『少年』が周囲を見回そうとした時であった。


「着いたわよ」


という『少年』の母親の言葉で、『少年』、そう、若き日のビーエル・トンミー氏に、ようやく、長~い一日の終りが、訪れることになるのであった。




(続く)




2022年5月28日土曜日

【牛田デラシネ中学生】変態の作られ方[その242]

 


「ビエールは、『時間』を見たことはあるのか?」


と、『少年』の父親は、<『時間』って、本当に存在するのか?>という問いに続けて、『少年』の心臓を射抜くような質問をする。広島市の『牛田新町一丁目』のバス停を背にし、家族と共に、自宅へと向っているところであった。


「へっ?!.....それは、時計を見れば」


『少年』は、そう答えるしかない。


その日(1967年に、山口県宇部市から広島市に引っ越して来た日)、八丁堀から牛田まで、随分、時間がかかったような気がする、と『少年』は疑問に思ったのであった。八丁堀から牛田まではバスで10分から15分くらいしかかからないのに、そんな時間ではとてもし切れない程のボリュームの話を父親から聞いたことを訝しく思い、その疑問に対し、『少年』の父親は、『アインシュタイン』の『相対性理論』を持ち出し、時間の進み方が遅かったのかもしれない、と答えた。しかし、『少年』はまだ納得できていないからか、『少年』の父親は、『閏年』があること、更には、『閏年』になるはずの年でも『閏年』にならない年もあることから、『1年』という時間は一定ではないと主張したものの、『少年』は、どこか誤魔化されている感を拭えないでいた。そこで、『少年』の父親は、日付変更線を越えることで、『昨日』にも『明日』にも行ける、と説明したかと思ったら、次に、1時間だけだが、日付変更線を越えなくても、『未来』や『過去』に行ける、とまで云い出した。それに対し、『少年』は、未来や過去を絵に描けばいい、そして、その未来を予見するには、自らが未来を創ればいい、と主張し、その慧眼に『少年』の父親は、驚きと共に喜びを表したが、またまた、アメリカやイタリア等は、強制的に1時間先の未来に連れて行かれたり、1時間昔に戻されたりすることがある、それも一瞬にして、と謎のようなことを云い出し、日本でもかつてそうであったことがあり、『4月か5月の第1土曜日の夜中24時に、1時間先の未来に連れて行かれ、9月の第2土曜日の25時になると、1時間昔に戻される』と法律で決められていたと説明した。しかし、『少年』には、『1時間先の未来に連れて行かれ、1時間昔に戻される』その『間』が何であるのか、理解できず、父親に訊いたところ、『サンマータイム』という返事があり、そこから『秋刀魚』という漢字の由来や、『さんま』は一文字の漢字では、魚偏に『祭』と書くこと等、『さんま』の漢字談義へと派生していっていたが、『少年』は、『サンマータイム』とは何か、という疑問に立ち戻り、『サンマータイム』を定めた法律は、正式には、『夏時刻法』と、『少年』の父親は、説明した。ところが、『少年』と『少年』の父親の会話は、そこから、『サンマー』が、実は『サマー』と発音するものであることから、英語の発音談義への移って行っていたのに、父親は、映画『ローマの休日』、そして、その主演女優『オードリー・ヘップバーン』や『ローマ字』の『ヘボン式』へと、また話を派生させていっていた。それをようやく、『少年』は、『サンマータイム』へと話を戻したが、『少年』の父親は、今度は、『キャサリーン・ヘップバーン』主演の映画『旅情』の原題は、『サマータイム』だと云いながらも、アメリカでは『サマータイム』のことを『デイライト・セイビング・タイム』(Daylight Saving Time)というのだ、と説明し、更には、『旅情』の原題である『サマータイム』は、『サマータイム』のことではなく、『サマー』という名前の人とも関係はないと、『少年』を混乱の渦の中で目眩を起こす程の状態とし、その『サマータイム』は、『夏時刻』の『サマータイム』ではなく、『夏』の『時』、『日々』を過ごす、といった感じのする言葉で、感覚的というか感傷的、感情的な装いを持つもの、という説明をしていた。その説明自体、感傷的なものであったように、後年(2021年になって)、少年ではなくなっていた『少年』は、思い出し、更に、父親の説明には、ある謎、もしくは予見が込められていたようにも感じたのである。だが、その時は(1967年)、父親が想像を超えたことを云い出だすとは、思いもせず、父親が使った大人びた言葉を使って、『濃密』な時間を過ごすと、人間は、時間を長く感じるものなんだね、と問うたところ、父親は、『時間が止る』という、まるで、テレビ・ドラマ『ふしぎな少年』の世界のようなことを云い、続けて、『ビッグバン』という、『少年』が聞いたことのない言葉を持ち出し、それは、宇宙全体で起きた爆発、といえばそうかもしれないが、それも違う、と『少年』をカオスに落とし込んでしまった。そして、それに留まらず、宇宙は『ビッグバン』ででき、『ビッグバン』の前には何もなかった、と父親は、云い出し、『少年』に『少年』が生れる前のことを問い質してきたが、『少年』は、自分の人間としての最初の記憶のある日のことを父親に返した。それは、1957年3月14日、『少年』の妹が、福岡県の春日原(かすがばる)で生れた日であり、そのことから、春日原にあった米軍兵士とその家族の住む住居であった『米軍ハウス』のこと、更には、『ベトナム戦争』、春日原近くにあった米軍の『板付基地』、『朝鮮戦争』。そして、日本の戦争への参加へと話は派生していっていた。しかし、聡明な『少年』の父親は、『少年』の当初の疑問を忘れず、『時間』へと話のテーマを戻してきたものの、『時間』の存在を否定してきたのだ。


「時計は、針が1秒1秒進むところを見ることはできるが、それが、『時間』なのか?」

「そうだと思うけど」

「それは、あくまで時計の針が進んでいるところ見ているだけじゃないのか?ゼンマイが止まって、時計の針が止まったら、『時間』も止まるのか?」

「そんなああ」

「時計を見ないと、『時間』は見れないのか?」

「見れなくっても、『時間』はあるよ」

「見れないのに、どうして、『時間』があることが分るんだ?」

「だってえ……そう、人間って、段々、年寄りになっていくじゃない」

「老化が、『時間』の存在の証拠なのか?」

「『時間』が経つから老けていくんでしょ?」

「では、人間は、1秒1秒、老けていっているんだな?」

「そうだよ」

「でも、今、父さんは、ビエールを見ているが、ビエールは老けていっているようには見えないぞ」

「それは、1秒だったり1分だったりするからだよ。そんなに一気に年をとったりはしないよ」

「1秒後、1分後には、そんなに年をとらないとすると、1秒後のまた1秒後、1分後のまた1分後も、人間はそんなに年をとらないんじゃないのか?それが重なっていったら、いくら経っても人間は年をとらないんじゃないのか?」

「1秒、1分では、目に見えたようには年をとらないだけで、やっぱり、少しずつ年をとっていっているんだと思う」

「では、仮に、『時間』が本当にあるとしたら、どうして、人によって老けのが早かったり遅かったりするんだ?60歳台で、もうかなりお爺さんみたいな人もいるし、70歳を超えても、とてもそうは見えない程、元気で若々しい人もいるじゃないか。母さんなんか、今だって、女学生の頃のように、若くてピチピチだぞ」




と、『少年』の父親は、妻の方に顔を寄せ、妻の体臭を嗅ぐようにした。




(続く)




2022年5月27日金曜日

【牛田デラシネ中学生】変態の作られ方[その241]

 


「まあ、アナタったらあ!」


と、『少年』の父親は、肩を強く叩かれた。それまで存在が消えていたようでもあった『少年』の母親が、夫と自分とで『少年』を誕生させた行為を『ビックバン』と称した夫に抗議したのだ。広島市の『牛田新町一丁目』のバス停を背にし、家族と共に、自宅へと向っているところであった。


「『ビックバン』でビエールが誕生する前、ビエールは存在しなかったし、ビエールには、『時間』も存在しなかった」


妻からの抗議にもめげず、『少年』の父親は、『少年』に向け、『時間』についての論を進めた。


その日(1967年に、山口県宇部市から広島市に引っ越して来た日)、八丁堀から牛田まで、随分、時間がかかったような気がする、と『少年』は疑問に思ったのであった。八丁堀から牛田まではバスで10分から15分くらいしかかからないのに、そんな時間ではとてもし切れない程のボリュームの話を父親から聞いたことを訝しく思い、その疑問に対し、『少年』の父親は、『アインシュタイン』の『相対性理論』を持ち出し、時間の進み方が遅かったのかもしれない、と答えた。しかし、『少年』はまだ納得できていないからか、『少年』の父親は、『閏年』があること、更には、『閏年』になるはずの年でも『閏年』にならない年もあることから、『1年』という時間は一定ではないと主張したものの、『少年』は、どこか誤魔化されている感を拭えないでいた。そこで、『少年』の父親は、日付変更線を越えることで、『昨日』にも『明日』にも行ける、と説明したかと思ったら、次に、1時間だけだが、日付変更線を越えなくても、『未来』や『過去』に行ける、とまで云い出した。それに対し、『少年』は、未来や過去を絵に描けばいい、そして、その未来を予見するには、自らが未来を創ればいい、と主張し、その慧眼に『少年』の父親は、驚きと共に喜びを表したが、またまた、アメリカやイタリア等は、強制的に1時間先の未来に連れて行かれたり、1時間昔に戻されたりすることがある、それも一瞬にして、と謎のようなことを云い出し、日本でもかつてそうであったことがあり、『4月か5月の第1土曜日の夜中24時に、1時間先の未来に連れて行かれ、9月の第2土曜日の25時になると、1時間昔に戻される』と法律で決められていたと説明した。しかし、『少年』には、『1時間先の未来に連れて行かれ、1時間昔に戻される』その『間』が何であるのか、理解できず、父親に訊いたところ、『サンマータイム』という返事があり、そこから『秋刀魚』という漢字の由来や、『さんま』は一文字の漢字では、魚偏に『祭』と書くこと等、『さんま』の漢字談義へと派生していっていたが、『少年』は、『サンマータイム』とは何か、という疑問に立ち戻り、『サンマータイム』を定めた法律は、正式には、『夏時刻法』と、『少年』の父親は、説明した。ところが、『少年』と『少年』の父親の会話は、そこから、『サンマー』が、実は『サマー』と発音するものであることから、英語の発音談義への移って行っていたのに、父親は、映画『ローマの休日』、そして、その主演女優『オードリー・ヘップバーン』や『ローマ字』の『ヘボン式』へと、また話を派生させていっていた。それをようやく、『少年』は、『サンマータイム』へと話を戻したが、『少年』の父親は、今度は、『キャサリーン・ヘップバーン』主演の映画『旅情』の原題は、『サマータイム』だと云いながらも、アメリカでは『サマータイム』のことを『デイライト・セイビング・タイム』(Daylight Saving Time)というのだ、と説明し、更には、『旅情』の原題である『サマータイム』は、『サマータイム』のことではなく、『サマー』という名前の人とも関係はないと、『少年』を混乱の渦の中で目眩を起こす程の状態とし、その『サマータイム』は、『夏時刻』の『サマータイム』ではなく、『夏』の『時』、『日々』を過ごす、といった感じのする言葉で、感覚的というか感傷的、感情的な装いを持つもの、という説明をしていた。その説明自体、感傷的なものであったように、後年(2021年になって)、少年ではなくなっていた『少年』は、思い出し、更に、父親の説明には、ある謎、もしくは予見が込められていたようにも感じたのである。だが、その時は(1967年)、父親が想像を超えたことを云い出だすとは、思いもせず、父親が使った大人びた言葉を使って、『濃密』な時間を過ごすと、人間は、時間を長く感じるものなんだね、と問うたところ、父親は、『時間が止る』という、まるで、テレビ・ドラマ『ふしぎな少年』の世界のようなことを云い、続けて、『ビッグバン』という、『少年』が聞いたことのない言葉を持ち出し、それは、宇宙全体で起きた爆発、といえばそうかもしれないが、それも違う、と『少年』をカオスに落とし込んでしまった。そして、それに留まらず、宇宙は『ビッグバン』ででき、『ビッグバン』の前には何もなかった、と父親は、云い出し、『少年』に『少年』が生れる前のことを問い質してきたが、『少年』は、自分の人間としての最初の記憶のある日のことを父親に返した。それは、1957年3月14日、『少年』の妹が、福岡県の春日原(かすがばる)で生れた日であり、そのことから、春日原にあった米軍兵士とその家族の住む住居であった『米軍ハウス』のこと、更には、『ベトナム戦争』、春日原近くにあった米軍の『板付基地』、『朝鮮戦争』。そして、日本の戦争への参加へと話は派生していっていた。しかし、聡明な『少年』の父親は、『少年』の当初の疑問を忘れず、『時間』へと話のテーマを戻してきたのであった。


「でも、『時間』って、存在したり、存在しなかったりするものなんだろうか?」

「そんなはずないよお」

「だが、実際、ビエールには、生れる前の時間はないだろう?」

「それは、ボクがまだこの世にいなかったからで…」

「死んだ後のことは、父さんもまだ経験はないが、そこにも時間はないんじゃないのか?」




「だってえ、それも、この世にいなくなるんだから…」

「存在したり、存在しなかったりする『時間』って、一体、何なんだ?いや、そもそも『時間』ってあるのか?」

「ええー!父さん!」

「『時間』って、本当に存在するのか?」

「あのお、父さん!」


『少年』は、その時、父親の正気を疑った、しかし、後年、自分より2歳若いイタリア人理論物理学者である『カルロ・ロヴェッリ』が、『時間は存在しない』と、まるで『少年』の父親が云ったようなことを云い出すことを、『少年』は、『老年』になって知るのであった。




(続く)




2022年5月26日木曜日

【牛田デラシネ中学生】変態の作られ方[その240]

 


「ベトナム戦争には、『板付基地』から米軍機が飛び立っていっているんだ」


と、『少年』の父親は、感情を出さぬように、そう云った。広島市の『牛田新町一丁目』のバス停を背にし、家族と共に、自宅へと向っているところであった。


「そうだったの?」


小学校を卒業したばかりの『少年』が知らなくても仕方のないことであった。


その日(1967年に、山口県宇部市から広島市に引っ越して来た日)、八丁堀から牛田まで、随分、時間がかかったような気がする、と『少年』は疑問に思ったのであった。八丁堀から牛田まではバスで10分から15分くらいしかかからないのに、そんな時間ではとてもし切れない程のボリュームの話を父親から聞いたことを訝しく思い、その疑問に対し、『少年』の父親は、『アインシュタイン』の『相対性理論』を持ち出し、時間の進み方が遅かったのかもしれない、と答えた。しかし、『少年』はまだ納得できていないからか、『少年』の父親は、『閏年』があること、更には、『閏年』になるはずの年でも『閏年』にならない年もあることから、『1年』という時間は一定ではないと主張したものの、『少年』は、どこか誤魔化されている感を拭えないでいた。そこで、『少年』の父親は、日付変更線を越えることで、『昨日』にも『明日』にも行ける、と説明したかと思ったら、次に、1時間だけだが、日付変更線を越えなくても、『未来』や『過去』に行ける、とまで云い出した。それに対し、『少年』は、未来や過去を絵に描けばいい、そして、その未来を予見するには、自らが未来を創ればいい、と主張し、その慧眼に『少年』の父親は、驚きと共に喜びを表したが、またまた、アメリカやイタリア等は、強制的に1時間先の未来に連れて行かれたり、1時間昔に戻されたりすることがある、それも一瞬にして、と謎のようなことを云い出し、日本でもかつてそうであったことがあり、『4月か5月の第1土曜日の夜中24時に、1時間先の未来に連れて行かれ、9月の第2土曜日の25時になると、1時間昔に戻される』と法律で決められていたと説明した。しかし、『少年』には、『1時間先の未来に連れて行かれ、1時間昔に戻される』その『間』が何であるのか、理解できず、父親に訊いたところ、『サンマータイム』という返事があり、そこから『秋刀魚』という漢字の由来や、『さんま』は一文字の漢字では、魚偏に『祭』と書くこと等、『さんま』の漢字談義へと派生していっていたが、『少年』は、『サンマータイム』とは何か、という疑問に立ち戻り、『サンマータイム』を定めた法律は、正式には、『夏時刻法』と、『少年』の父親は、説明した。ところが、『少年』と『少年』の父親の会話は、そこから、『サンマー』が、実は『サマー』と発音するものであることから、英語の発音談義への移って行っていたのに、父親は、映画『ローマの休日』、そして、その主演女優『オードリー・ヘップバーン』や『ローマ字』の『ヘボン式』へと、また話を派生させていっていた。それをようやく、『少年』は、『サンマータイム』へと話を戻したが、『少年』の父親は、今度は、『キャサリーン・ヘップバーン』主演の映画『旅情』の原題は、『サマータイム』だと云いながらも、アメリカでは『サマータイム』のことを『デイライト・セイビング・タイム』(Daylight Saving Time)というのだ、と説明し、更には、『旅情』の原題である『サマータイム』は、『サマータイム』のことではなく、『サマー』という名前の人とも関係はないと、『少年』を混乱の渦の中で目眩を起こす程の状態とし、その『サマータイム』は、『夏時刻』の『サマータイム』ではなく、『夏』の『時』、『日々』を過ごす、といった感じのする言葉で、感覚的というか感傷的、感情的な装いを持つもの、という説明をしていた。その説明自体、感傷的なものであったように、後年(2021年になって)、少年ではなくなっていた『少年』は、思い出し、更に、父親の説明には、ある謎、もしくは予見が込められていたようにも感じたのである。だが、その時は(1967年)、父親が想像を超えたことを云い出だすとは、思いもせず、父親が使った大人びた言葉を使って、『濃密』な時間を過ごすと、人間は、時間を長く感じるものなんだね、と問うたところ、父親は、『時間が止る』という、まるで、テレビ・ドラマ『ふしぎな少年』の世界のようなことを云い、続けて、『ビッグバン』という、『少年』が聞いたことのない言葉を持ち出し、それは、宇宙全体で起きた爆発、といえばそうかもしれないが、それも違う、と『少年』をカオスに落とし込んでしまった。そして、それに留まらず、宇宙は『ビッグバン』ででき、『ビッグバン』の前には何もなかった、と父親は、云い出し、『少年』に『少年』が生れる前のことを問い質してきたが、『少年』は、自分の人間としての最初の記憶のある日のことを父親に返した。それは、1957年3月14日、『少年』の妹が、福岡県の春日原(かすがばる)で生れた日であり、そのことから、春日原にあった米軍兵士とその家族の住む住居であった『米軍ハウス』のこと、更には、『ベトナム戦争』へ、そして、春日原近くにあった米軍の『板付基地』へと話は派生していっていた。


「春日原のウチの前のアメリカ人の一家のご主人だって、ベトナムに行っていたかもしれない」


『少年』の父親は、そのアメリカ人の名前を知っていたが、敢えて、その名を口にしなかった。『板付基地』」は、米軍の『ベトナム戦争』の前線基地であった。


「えええ…そうだったの。知らなかった」

「あのアメリカ人の一家のご主人は、ベトナムでベトナム人を、殺したくなくても殺したかもしれないし、あの人自身が、ベトナムで殺されてしまっているのかもしれない」

「えっ……戦争が、そんなに身近なところにあったなんて


『少年』は、春日原の生家の前の『米軍ハウス』とその前で談笑するアメリカ人家族を思い出した。


「…..でも、日本は、ベトナムに戦争に行ってないよ」

「『板付基地』は、どこの国にある?どこの国が、アメリカに『板付基地』を提供しているんだ」

「…日本だよ。….」

「だな」

「…….そういうこと?」

「ああ、そういうことだ。ベトナムだけじゃない。朝鮮だってそうだ」

「朝鮮?『朝鮮戦争』のこと?『朝鮮戦争』にも、アメリカは、『板付基地』から行っていたの?」

「そうだ。それだけではない。海上保安庁は、『朝鮮戦争』で機雷の掃海をしたし、米軍基地で働いていた日本人には、朝鮮で戦闘に参加させられた人もいたはずなんだ」




『少年』の父親は、何かをじっと深く思い出すように、そう云った。


「まさかあ!....知らなかった。だって、『朝鮮戦争』って、ボクが生れる前に終ったんでしょ?」

「いや、まだ終っていないさ。確かに、ビエールが生れる前の年の1953年に休戦協定が結ばれたが、休戦しているだけで、まだ『朝鮮戦争』は終っていないんだ」

「でも、生れる前のことは、知らない」

「ああ、そうだろう。では、もう一度、訊こう。春日原にいた前、ビエールは、どこにいたんだ?」

「え?どこにもいないよ。だって、生れてないんだから」

「宇宙だって、同じだ。宇宙は、『ビックバン』で誕生する前、どこにもなかったんだ。ビエール自身が、ある意味、一つの宇宙だ。ビエールが誕生する前、ビエールは存在しなかった。でも、父さんと母さんとの『ビックバン』でビエールが誕生したんだ」



(続く)




2022年5月25日水曜日

【牛田デラシネ中学生】変態の作られ方[その239]

 


「ビエールが生れた翌年から今に至るまで、戦争しているからなあ」


と、『少年』の父親が、敢えてな云い方をしたことに、『少年』は気付かない。広島市の『牛田新町一丁目』のバス停を背にし、家族と共に、自宅へと向っているところであった。


「ああ、『ベトナム戦争』だね」


『少年』は、その時、初めて、自分が生れ、かつて住んでいた福岡県の春日原の家と『ベトナム戦争』とを、思考の中で結びつけた。


その日(1967年に、山口県宇部市から広島市に引っ越して来た日)、八丁堀から牛田まで、随分、時間がかかったような気がする、と『少年』は疑問に思ったのであった。八丁堀から牛田まではバスで10分から15分くらいしかかからないのに、そんな時間ではとてもし切れない程のボリュームの話を父親から聞いたことを訝しく思い、その疑問に対し、『少年』の父親は、『アインシュタイン』の『相対性理論』を持ち出し、時間の進み方が遅かったのかもしれない、と答えた。しかし、『少年』はまだ納得できていないからか、『少年』の父親は、『閏年』があること、更には、『閏年』になるはずの年でも『閏年』にならない年もあることから、『1年』という時間は一定ではないと主張したものの、『少年』は、どこか誤魔化されている感を拭えないでいた。そこで、『少年』の父親は、日付変更線を越えることで、『昨日』にも『明日』にも行ける、と説明したかと思ったら、次に、1時間だけだが、日付変更線を越えなくても、『未来』や『過去』に行ける、とまで云い出した。それに対し、『少年』は、未来や過去を絵に描けばいい、そして、その未来を予見するには、自らが未来を創ればいい、と主張し、その慧眼に『少年』の父親は、驚きと共に喜びを表したが、またまた、アメリカやイタリア等は、強制的に1時間先の未来に連れて行かれたり、1時間昔に戻されたりすることがある、それも一瞬にして、と謎のようなことを云い出し、日本でもかつてそうであったことがあり、『4月か5月の第1土曜日の夜中24時に、1時間先の未来に連れて行かれ、9月の第2土曜日の25時になると、1時間昔に戻される』と法律で決められていたと説明した。しかし、『少年』には、『1時間先の未来に連れて行かれ、1時間昔に戻される』その『間』が何であるのか、理解できず、父親に訊いたところ、『サンマータイム』という返事があり、そこから『秋刀魚』という漢字の由来や、『さんま』は一文字の漢字では、魚偏に『祭』と書くこと等、『さんま』の漢字談義へと派生していっていたが、『少年』は、『サンマータイム』とは何か、という疑問に立ち戻り、『サンマータイム』を定めた法律は、正式には、『夏時刻法』と、『少年』の父親は、説明した。ところが、『少年』と『少年』の父親の会話は、そこから、『サンマー』が、実は『サマー』と発音するものであることから、英語の発音談義への移って行っていたのに、父親は、映画『ローマの休日』、そして、その主演女優『オードリー・ヘップバーン』や『ローマ字』の『ヘボン式』へと、また話を派生させていっていた。それをようやく、『少年』は、『サンマータイム』へと話を戻したが、『少年』の父親は、今度は、『キャサリーン・ヘップバーン』主演の映画『旅情』の原題は、『サマータイム』だと云いながらも、アメリカでは『サマータイム』のことを『デイライト・セイビング・タイム』(Daylight Saving Time)というのだ、と説明し、更には、『旅情』の原題である『サマータイム』は、『サマータイム』のことではなく、『サマー』という名前の人とも関係はないと、『少年』を混乱の渦の中で目眩を起こす程の状態とし、その『サマータイム』は、『夏時刻』の『サマータイム』ではなく、『夏』の『時』、『日々』を過ごす、といった感じのする言葉で、感覚的というか感傷的、感情的な装いを持つもの、という説明をしていた。その説明自体、感傷的なものであったように、後年(2021年になって)、少年ではなくなっていた『少年』は、思い出し、更に、父親の説明には、ある謎、もしくは予見が込められていたようにも感じたのである。だが、その時は(1967年)、父親が想像を超えたことを云い出だすとは、思いもせず、父親が使った大人びた言葉を使って、『濃密』な時間を過ごすと、人間は、時間を長く感じるものなんだね、と問うたところ、父親は、『時間が止る』という、まるで、テレビ・ドラマ『ふしぎな少年』の世界のようなことを云い、続けて、『ビッグバン』という、『少年』が聞いたことのない言葉を持ち出し、それは、宇宙全体で起きた爆発、といえばそうかもしれないが、それも違う、と『少年』をカオスに落とし込んでしまった。そして、それに留まらず、宇宙は『ビッグバン』ででき、『ビッグバン』の前には何もなかった、と父親は、云い出し、『少年』に『少年』が生れる前のことを問い質してきたが、『少年』は、自分の人間としての最初の記憶のある日のことを父親に返した。それは、1957年3月14日、『少年』の妹が、福岡県の春日原(かすがばる)で生れた日であり、そのことから、春日原にあった米軍兵士とその家族の住む住居であった『米軍ハウス』のこと、更には、『ベトナム戦争』へと話は派生していっていた。


「そうかあ。ウチの近所に住んでた外人さんは、アメリカ人で、アメリカはべトム戦争をしていたんだ」


『少年』は、主語を省略した父親の説明に主語を付けたが……


「アメリカだけじゃないさ」

「ああ、北ベトナムって、ソ連が助けてるんだよね」




「中国も北ベトナムを支援しているし、アメリカ以外に、アメリカと一緒に韓国やオーストラリアやタイとかベトナム戦争に参戦している国もあるんだ」

「へええ、そうなんだね」

「日本だってな」

「え?日本はベトナム戦争に参戦していないでしょう?日本は、戦争放棄しているんだから」

「ああ、直接的には参戦していないがな。それに、憲法でいくら戦争放棄と謳ったところで、戦争はしようと思えばするだろう」

「直接的には、って?」

「春日原(かすがばる)の家の側に、米軍基地があっただろ。『板付基地』だ」

「うん、覚えてるよ」


今でも(21世紀である)、少年で亡くなった『少年』は、飛行機が、福岡空港に山側から着陸する時に、春日原の生家を思い出す。飛行機が、春日原辺り(NHKのラジオ・アンテナ辺り)で方向転換して滑走路に向かうからである。


福岡空港は、周知のことであるが、元は、1945年に建設された『席田(むしろだ)飛行場』で、戦後(太平洋戦争後)、米軍に接収され、『板付基地』として使われていたのである(日本に返還された後の今でも、米軍も使用しているそうだが)。



(続く)




2022年5月24日火曜日

【牛田デラシネ中学生】変態の作られ方[その238]

 


「1957年3月14日だよ。ボクは、2歳5ヶ月と14日だったよ」


と、小学校を卒業したばかりの『少年』は、その後の人生の彼を象徴する正確無比さを既に見せた。広島市の『牛田新町一丁目』のバス停を背にし、家族と共に、自宅へと向っているところであった。


「おお、あの日かあ」


『少年』の父親も視線を虚空に泳がせ、何かを思い出すようであった。


その日(1967年に、山口県宇部市から広島市に引っ越して来た日)、八丁堀から牛田まで、随分、時間がかかったような気がする、と『少年』は疑問に思ったのであった。八丁堀から牛田まではバスで10分から15分くらいしかかからないのに、そんな時間ではとてもし切れない程のボリュームの話を父親から聞いたことを訝しく思い、その疑問に対し、『少年』の父親は、『アインシュタイン』の『相対性理論』を持ち出し、時間の進み方が遅かったのかもしれない、と答えた。しかし、『少年』はまだ納得できていないからか、『少年』の父親は、『閏年』があること、更には、『閏年』になるはずの年でも『閏年』にならない年もあることから、『1年』という時間は一定ではないと主張したものの、『少年』は、どこか誤魔化されている感を拭えないでいた。そこで、『少年』の父親は、日付変更線を越えることで、『昨日』にも『明日』にも行ける、と説明したかと思ったら、次に、1時間だけだが、日付変更線を越えなくても、『未来』や『過去』に行ける、とまで云い出した。それに対し、『少年』は、未来や過去を絵に描けばいい、そして、その未来を予見するには、自らが未来を創ればいい、と主張し、その慧眼に『少年』の父親は、驚きと共に喜びを表したが、またまた、アメリカやイタリア等は、強制的に1時間先の未来に連れて行かれたり、1時間昔に戻されたりすることがある、それも一瞬にして、と謎のようなことを云い出し、日本でもかつてそうであったことがあり、『4月か5月の第1土曜日の夜中24時に、1時間先の未来に連れて行かれ、9月の第2土曜日の25時になると、1時間昔に戻される』と法律で決められていたと説明した。しかし、『少年』には、『1時間先の未来に連れて行かれ、1時間昔に戻される』その『間』が何であるのか、理解できず、父親に訊いたところ、『サンマータイム』という返事があり、そこから『秋刀魚』という漢字の由来や、『さんま』は一文字の漢字では、魚偏に『祭』と書くこと等、『さんま』の漢字談義へと派生していっていたが、『少年』は、『サンマータイム』とは何か、という疑問に立ち戻り、『サンマータイム』を定めた法律は、正式には、『夏時刻法』と、『少年』の父親は、説明した。ところが、『少年』と『少年』の父親の会話は、そこから、『サンマー』が、実は『サマー』と発音するものであることから、英語の発音談義への移って行っていたのに、父親は、映画『ローマの休日』、そして、その主演女優『オードリー・ヘップバーン』や『ローマ字』の『ヘボン式』へと、また話を派生させていっていた。それをようやく、『少年』は、『サンマータイム』へと話を戻したが、『少年』の父親は、今度は、『キャサリーン・ヘップバーン』主演の映画『旅情』の原題は、『サマータイム』だと云いながらも、アメリカでは『サマータイム』のことを『デイライト・セイビング・タイム』(Daylight Saving Time)というのだ、と説明し、更には、『旅情』の原題である『サマータイム』は、『サマータイム』のことではなく、『サマー』という名前の人とも関係はないと、『少年』を混乱の渦の中で目眩を起こす程の状態とし、その『サマータイム』は、『夏時刻』の『サマータイム』ではなく、『夏』の『時』、『日々』を過ごす、といった感じのする言葉で、感覚的というか感傷的、感情的な装いを持つもの、という説明をしていた。その説明自体、感傷的なものであったように、後年(2021年になって)、少年ではなくなっていた『少年』は、思い出し、更に、父親の説明には、ある謎、もしくは予見が込められていたようにも感じたのである。だが、その時は(1967年)、父親が想像を超えたことを云い出だすとは、思いもせず、父親が使った大人びた言葉を使って、『濃密』な時間を過ごすと、人間は、時間を長く感じるものなんだね、と問うたところ、父親は、『時間が止る』という、まるで、テレビ・ドラマ『ふしぎな少年』の世界のようなことを云い、続けて、『ビッグバン』という、『少年』が聞いたことのない言葉を持ち出し、それは、宇宙全体で起きた爆発、といえばそうかもしれないが、それも違う、と『少年』をカオスに落とし込んでしまった。そして、それに留まらず、宇宙は『ビッグバン』ででき、『ビッグバン』の前には何もなかった、と父親は、云い出し、『少年』に『少年』が生れる前のことを問い質してきたが、『少年』は、自分の人間としての最初の記憶のある日のことを父親に返したのであった。


「妹ができて嬉しかったんだ」


1957年3月14日は、イモートン・トンミーの生れた日であったのだ。


「父さんも、トンちゃんが生まれてきて、嬉しかった」

「あの時、ボク、家のどの部屋にいたかも覚えているよ」


当時(1950年代である)、お産は、自宅でお産婆さんに取り上げてもらうのが普通であった。


「おお、春日原(かすがばる)の家だな」

「うん!ボク、春日原にいた頃のこと、よーく覚えているよ。今だって、青の家の見取り図、描けるし、家の周りのことだって、たくさん覚えているよ!ウチの前には、外人さんが住んでたでしょ?」

「ああ、『米軍ハウス』だな」


『少年』の父親は、何故か、眉間に皺を寄せた。


福岡県の春日原は、戦後から米軍の板付基地の住宅地区になっており、米兵とその家族は、その住宅地区に入るまで周辺に作られた『米軍ハウス』と呼ばれた仮の住まいに住んでいたのである。


「外人さんの家、平家だったよね。床か天井近くまでの窓があって、青い網戸がついてたと思う。その窓に換気扇がついてて、一日中、夜中も回っていたでしょ?」

「ああ、そうだったかなあ….よーく覚えているなあ」

「外人さんの奥さんが、ウチに、お婆さんちゃんがボクをタライの湯で風呂に入れるのを見学に来たことだって、覚えてるよ」




「へええ、そんなことあったか。父さんが仕事に行っている間に、そんな平和なことがあったのか」

「平和?」


『少年』は、父親の云わんとすることを測りかねた。



(続く)




2022年5月23日月曜日

【牛田デラシネ中学生】変態の作られ方[その237]

 


「じゃあ、訊こう。ビエール、ビエールは、母さんのお腹の中にいる前は、どうしていたんだ?」


と、『少年』の父親は、小学校を卒業したばかりの『少年』であっても、容赦無い質問を浴びせ重ねてきた。広島市の『牛田新町一丁目』のバス停を背にし、家族と共に、自宅へと向っているところであった。


「母さんのお腹の中にいる前、ボクはいなかったよ」


『少年』は、憮然としていた。


その日(1967年に、山口県宇部市から広島市に引っ越して来た日)、八丁堀から牛田まで、随分、時間がかかったような気がする、と『少年』は疑問に思ったのであった。八丁堀から牛田まではバスで10分から15分くらいしかかからないのに、そんな時間ではとてもし切れない程のボリュームの話を父親から聞いたことを訝しく思い、その疑問に対し、『少年』の父親は、『アインシュタイン』の『相対性理論』を持ち出し、時間の進み方が遅かったのかもしれない、と答えた。しかし、『少年』はまだ納得できていないからか、『少年』の父親は、『閏年』があること、更には、『閏年』になるはずの年でも『閏年』にならない年もあることから、『1年』という時間は一定ではないと主張したものの、『少年』は、どこか誤魔化されている感を拭えないでいた。そこで、『少年』の父親は、日付変更線を越えることで、『昨日』にも『明日』にも行ける、と説明したかと思ったら、次に、1時間だけだが、日付変更線を越えなくても、『未来』や『過去』に行ける、とまで云い出した。それに対し、『少年』は、未来や過去を絵に描けばいい、そして、その未来を予見するには、自らが未来を創ればいい、と主張し、その慧眼に『少年』の父親は、驚きと共に喜びを表したが、またまた、アメリカやイタリア等は、強制的に1時間先の未来に連れて行かれたり、1時間昔に戻されたりすることがある、それも一瞬にして、と謎のようなことを云い出し、日本でもかつてそうであったことがあり、『4月か5月の第1土曜日の夜中24時に、1時間先の未来に連れて行かれ、9月の第2土曜日の25時になると、1時間昔に戻される』と法律で決められていたと説明した。しかし、『少年』には、『1時間先の未来に連れて行かれ、1時間昔に戻される』その『間』が何であるのか、理解できず、父親に訊いたところ、『サンマータイム』という返事があり、そこから『秋刀魚』という漢字の由来や、『さんま』は一文字の漢字では、魚偏に『祭』と書くこと等、『さんま』の漢字談義へと派生していっていたが、『少年』は、『サンマータイム』とは何か、という疑問に立ち戻り、『サンマータイム』を定めた法律は、正式には、『夏時刻法』と、『少年』の父親は、説明した。ところが、『少年』と『少年』の父親の会話は、そこから、『サンマー』が、実は『サマー』と発音するものであることから、英語の発音談義への移って行っていたのに、父親は、映画『ローマの休日』、そして、その主演女優『オードリー・ヘップバーン』や『ローマ字』の『ヘボン式』へと、また話を派生させていっていた。それをようやく、『少年』は、『サンマータイム』へと話を戻したが、『少年』の父親は、今度は、『キャサリーン・ヘップバーン』主演の映画『旅情』の原題は、『サマータイム』だと云いながらも、アメリカでは『サマータイム』のことを『デイライト・セイビング・タイム』(Daylight Saving Time)というのだ、と説明し、更には、『旅情』の原題である『サマータイム』は、『サマータイム』のことではなく、『サマー』という名前の人とも関係はないと、『少年』を混乱の渦の中で目眩を起こす程の状態とし、その『サマータイム』は、『夏時刻』の『サマータイム』ではなく、『夏』の『時』、『日々』を過ごす、といった感じのする言葉で、感覚的というか感傷的、感情的な装いを持つもの、という説明をしていた。その説明自体、感傷的なものであったように、後年(2021年になって)、少年ではなくなっていた『少年』は、思い出し、更に、父親の説明には、ある謎、もしくは予見が込められていたようにも感じたのである。だが、その時は(1967年)、父親が想像を超えたことを云い出だすとは、思いもせず、父親が使った大人びた言葉を使って、『濃密』な時間を過ごすと、人間は、時間を長く感じるものなんだね、と問うたところ、父親は、『時間が止る』という、まるで、テレビ・ドラマ『ふしぎな少年』の世界のようなことを云い、続けて、『ビッグバン』という、『少年』が聞いたことのない言葉を持ち出し、それは、宇宙全体で起きた爆発、といえばそうかもしれないが、それも違う、と『少年』をカオスに落とし込んでしまった。そして、それに留まらず、宇宙は『ビッグバン』ででき、『ビッグバン』の前には何もなかった、と父親は、云い出し、『少年』に『少年』が生れる前のことを問い質してきていた。


「じゃあ、訊こう。ビエール、ビエールは、どうやって母さんのお腹の中に入ったんだ?」

「えっ!?....それは、父さんと母さんが…」


『少年』は、暗がりで見えはしなかったが、頬を紅に染め、俯いた。『少年』は、子どもがどうやってできるかは、もう知っていた。


「じゃあ、訊こう。ビエール、父さんと母さんがビエールを作る前は、ビエールは、どうなっていたんだ?」

「いなかったよ…」

「だろう?それと同じなんだよ」

「ええ…」

「ビエールは、ビエールが生れる前が、世の中がどうなっていたか、覚えているか?」

「え?ボクが生れる前、世の中がどうなっていたか?そりゃ、いろんなことがあったんじゃないかと思うけど、えーっと、確か、ボクが生れる3ヶ月前、自衛隊ができたんだよね?」




「おお、よく知っているな。そうだ、自衛隊ができたのは、そう、1954年7月1日だから、ビエールが生れる丁度、3ヶ月前だな。だけど、そんな生れる前のことを覚えていたのか?」

「そんなあ。生れる前のことを覚えている、なんてことある訳ないじゃない。ボクの人間としての最初の記憶は…」


『少年』の脳裏には、あの日の像が浮かんできた。



(続く)



2022年5月22日日曜日

【牛田デラシネ中学生】変態の作られ方[その236]

 


「だってな…」


と、『少年』の父親は、間を置いた。広島市の『牛田新町一丁目』のバス停を背にし、家族と共に、自宅へと向っているところであった。


「宇宙は、『ビックバン』でできたからなんだ」


『少年』の父親は、ようやく肝心の点を言葉にした。


その日(1967年に、山口県宇部市から広島市に引っ越して来た日)、八丁堀から牛田まで、随分、時間がかかったような気がする、と『少年』は疑問に思ったのであった。八丁堀から牛田まではバスで10分から15分くらいしかかからないのに、そんな時間ではとてもし切れない程のボリュームの話を父親から聞いたことを訝しく思い、その疑問に対し、『少年』の父親は、『アインシュタイン』の『相対性理論』を持ち出し、時間の進み方が遅かったのかもしれない、と答えた。しかし、『少年』はまだ納得できていないからか、『少年』の父親は、『閏年』があること、更には、『閏年』になるはずの年でも『閏年』にならない年もあることから、『1年』という時間は一定ではないと主張したものの、『少年』は、どこか誤魔化されている感を拭えないでいた。そこで、『少年』の父親は、日付変更線を越えることで、『昨日』にも『明日』にも行ける、と説明したかと思ったら、次に、1時間だけだが、日付変更線を越えなくても、『未来』や『過去』に行ける、とまで云い出した。それに対し、『少年』は、未来や過去を絵に描けばいい、そして、その未来を予見するには、自らが未来を創ればいい、と主張し、その慧眼に『少年』の父親は、驚きと共に喜びを表したが、またまた、アメリカやイタリア等は、強制的に1時間先の未来に連れて行かれたり、1時間昔に戻されたりすることがある、それも一瞬にして、と謎のようなことを云い出し、日本でもかつてそうであったことがあり、『4月か5月の第1土曜日の夜中24時に、1時間先の未来に連れて行かれ、9月の第2土曜日の25時になると、1時間昔に戻される』と法律で決められていたと説明した。しかし、『少年』には、『1時間先の未来に連れて行かれ、1時間昔に戻される』その『間』が何であるのか、理解できず、父親に訊いたところ、『サンマータイム』という返事があり、そこから『秋刀魚』という漢字の由来や、『さんま』は一文字の漢字では、魚偏に『祭』と書くこと等、『さんま』の漢字談義へと派生していっていたが、『少年』は、『サンマータイム』とは何か、という疑問に立ち戻り、『サンマータイム』を定めた法律は、正式には、『夏時刻法』と、『少年』の父親は、説明した。ところが、『少年』と『少年』の父親の会話は、そこから、『サンマー』が、実は『サマー』と発音するものであることから、英語の発音談義への移って行っていたのに、父親は、映画『ローマの休日』、そして、その主演女優『オードリー・ヘップバーン』や『ローマ字』の『ヘボン式』へと、また話を派生させていっていた。それをようやく、『少年』は、『サンマータイム』へと話を戻したが、『少年』の父親は、今度は、『キャサリーン・ヘップバーン』主演の映画『旅情』の原題は、『サマータイム』だと云いながらも、アメリカでは『サマータイム』のことを『デイライト・セイビング・タイム』(Daylight Saving Time)というのだ、と説明し、更には、『旅情』の原題である『サマータイム』は、『サマータイム』のことではなく、『サマー』という名前の人とも関係はないと、『少年』を混乱の渦の中で目眩を起こす程の状態とし、その『サマータイム』は、『夏時刻』の『サマータイム』ではなく、『夏』の『時』、『日々』を過ごす、といった感じのする言葉で、感覚的というか感傷的、感情的な装いを持つもの、という説明をしていた。その説明自体、感傷的なものであったように、後年(2021年になって)、少年ではなくなっていた『少年』は、思い出し、更に、父親の説明には、ある謎、もしくは予見が込められていたようにも感じたのである。だが、その時は(1967年)、父親が想像を超えたことを云い出だすとは、思いもせず、父親が使った大人びた言葉を使って、『濃密』な時間を過ごすと、人間は、時間を長く感じるものなんだね、と問うたところ、父親は、『時間が止る』という、まるで、テレビ・ドラマ『ふしぎな少年』の世界のようなことを云い、続けて、『ビッグバン』という、『少年』が聞いたことのない言葉を持ち出し、それは、宇宙全体で起きた爆発、といえばそうかもしれないが、それも違う、と『少年』をカオスに落とし込んでしまったのだ。


「え?宇宙が、『ビックバン』でできた?」

「ああ、宇宙は、どうやら、『ビックバン』という大爆発から誕生したようなんだ。そこから、膨張してきているらしいんだ、宇宙は。大爆発だから、最初はものすごーい高温だったようだが、段々、冷えて、今のように低温というか、高温ではなくなってきたようなんだ」

「はあ?はあ、はあ、はあ???要するに、その大爆発、『ビックバン』はどこで起きたの?」

「いや、『ビックバン』は、どこかの場所で、うーん、言い換えれば、どこかの空間で起きたものではなく、『ビックバン』は、空間そのものの爆発だったんだそうだ」

「え?空間そのものの爆発?じゃあ、その爆発した空間は、どこで起きたの?」

「うーむ、そうだなあ、何もないところで、と云えばいいのかなあ」

「それに、『ビックバン』で宇宙ができたって、じゃあ、その前はどうなってたの?」

「おお、そこだよ、問題は。『ビックバン』の前は何もなかったんだ」

「ええ?ええ、ええ、ええー!?『ビックバン』の前は何もなかったの?何もない、なんてことないんじゃないの?」

「『時間』も、『ビックバン』でできたともされているようなんだが、そもそも『時間』がある、と考えるから、その『前』は、という発想になるんだ。でも、『時間』がなかったら、その『前』も『後』もないだろう?」

「理屈ではそうだろうけど、『前』がないなんてことはないんじゃないの?その『後』だって、ないなんてことはないんじゃないの?」

「じゃあ、訊こう。ビエール、ビエールは、生れる前は、どうなっていたんだ?」

「へ?ボクが生れる前?生れる前、ボクはいなかったよ。母さんのお腹の中にはいたけど」




『少年』は、表情に怪訝を隠さない。



(続く)





2022年5月21日土曜日

【牛田デラシネ中学生】変態の作られ方[その235]

 


「『ビッグバン』って、原爆よりもっと大きな爆発なの?」


と、『原爆』という言葉を使った時、『少年』は自分が、『ヒロシマ』にいることを思い出した。広島市の『牛田新町一丁目』のバス停を背にし、家族と共に、自宅へと向っているところであった。


「『四次元のお姉ちゃん』がアフリカの砂漠に移動させて爆発したのって、キノコ雲が立ち上がったから、原爆じゃないかと思うんだけど」


『少年』は、漫画の『ふしぎな少年』の絵を思い浮かべた。


その日(1967年に、山口県宇部市から広島市に引っ越して来た日)、八丁堀から牛田まで、随分、時間がかかったような気がする、と『少年』は疑問に思ったのであった。八丁堀から牛田まではバスで10分から15分くらいしかかからないのに、そんな時間ではとてもし切れない程のボリュームの話を父親から聞いたことを訝しく思い、その疑問に対し、『少年』の父親は、『アインシュタイン』の『相対性理論』を持ち出し、時間の進み方が遅かったのかもしれない、と答えた。しかし、『少年』はまだ納得できていないからか、『少年』の父親は、『閏年』があること、更には、『閏年』になるはずの年でも『閏年』にならない年もあることから、『1年』という時間は一定ではないと主張したものの、『少年』は、どこか誤魔化されている感を拭えないでいた。そこで、『少年』の父親は、日付変更線を越えることで、『昨日』にも『明日』にも行ける、と説明したかと思ったら、次に、1時間だけだが、日付変更線を越えなくても、『未来』や『過去』に行ける、とまで云い出した。それに対し、『少年』は、未来や過去を絵に描けばいい、そして、その未来を予見するには、自らが未来を創ればいい、と主張し、その慧眼に『少年』の父親は、驚きと共に喜びを表したが、またまた、アメリカやイタリア等は、強制的に1時間先の未来に連れて行かれたり、1時間昔に戻されたりすることがある、それも一瞬にして、と謎のようなことを云い出し、日本でもかつてそうであったことがあり、『4月か5月の第1土曜日の夜中24時に、1時間先の未来に連れて行かれ、9月の第2土曜日の25時になると、1時間昔に戻される』と法律で決められていたと説明した。しかし、『少年』には、『1時間先の未来に連れて行かれ、1時間昔に戻される』その『間』が何であるのか、理解できず、父親に訊いたところ、『サンマータイム』という返事があり、そこから『秋刀魚』という漢字の由来や、『さんま』は一文字の漢字では、魚偏に『祭』と書くこと等、『さんま』の漢字談義へと派生していっていたが、『少年』は、『サンマータイム』とは何か、という疑問に立ち戻り、『サンマータイム』を定めた法律は、正式には、『夏時刻法』と、『少年』の父親は、説明した。ところが、『少年』と『少年』の父親の会話は、そこから、『サンマー』が、実は『サマー』と発音するものであることから、英語の発音談義への移って行っていたのに、父親は、映画『ローマの休日』、そして、その主演女優『オードリー・ヘップバーン』や『ローマ字』の『ヘボン式』へと、また話を派生させていっていた。それをようやく、『少年』は、『サンマータイム』へと話を戻したが、『少年』の父親は、今度は、『キャサリーン・ヘップバーン』主演の映画『旅情』の原題は、『サマータイム』だと云いながらも、アメリカでは『サマータイム』のことを『デイライト・セイビング・タイム』(Daylight Saving Time)というのだ、と説明し、更には、『旅情』の原題である『サマータイム』は、『サマータイム』のことではなく、『サマー』という名前の人とも関係はないと、『少年』を混乱の渦の中で目眩を起こす程の状態とし、その『サマータイム』は、『夏時刻』の『サマータイム』ではなく、『夏』の『時』、『日々』を過ごす、といった感じのする言葉で、感覚的というか感傷的、感情的な装いを持つもの、という説明をしていた。その説明自体、感傷的なものであったように、後年(2021年になって)、少年ではなくなっていた『少年』は、思い出し、更に、父親の説明には、ある謎、もしくは予見が込められていたようにも感じたのである。だが、その時は(1967年)、父親が想像を超えたことを云い出だすとは、思いもせず、父親が使った大人びた言葉を使って、『濃密』な時間を過ごすと、人間は、時間を長く感じるものなんだね、と問うたところ、父親は、『時間が止る』という、まるで、テレビ・ドラマ『ふしぎな少年』の世界のようなことを云い、続けて、『ビッグバン』という、『少年』が聞いたことのない言葉を持ち出してきたのである。


「原爆は、とっても大きくて酷い爆発を起こすものだが、『ビッグバン』は、そんなんものの比ではない大きさだったんだ」

「そんな爆発が、地球上で起きたら、地球が壊れちゃうよお!」

「いや、地球上で起きたんじゃないんだ、『ビックバン』は」

「え?じゃあ、どこで?宇宙で???」

「うーむ…それは、難しい質問だなあ」

「どうして?地球じゃなかったら、宇宙しかないんじゃないの?」

「地球だって、宇宙の中にある存在だから、『地球じゃなかったら、宇宙』というのはおかしいぞ」

「じゃあ、地球の外で起きたの『ビックバン』は?」


今なら(2022年である)誰が知る『ビックバン』なる言葉は、まだ一般にはあまり使われていない時代であった。『ビックバン』理論の有力な証拠となる『宇宙マイクロ波背景放射』が発見されて、ようやく3年経とうしている時であったのだ(1964年に、物理学者のアーノ・ペンジアス、ロバート・W・ウィルソンが、ベル研究所の、ラッパズボンの裾のように拡がるその形から俗に『電磁ラッパ』と呼ばれる『ホーンアンテナ』で発見したばかりだった)。




「いや、そうでもない。宇宙全体で起きた、といえばそうかもしれないが、いやいあや、それも違うように思う」

「宇宙全体で?でも、それも違うの?...???」


『少年』の思考は、無限のような宇宙空間に投げ出されたかのようになった。



(続く)