『トラック野郎』のビエール・トンミー氏は、壊れたハイヒールを持ち、ふらふらと歩く『彼女』を「拾い」、自身が運転するデコトラの助手席に乗せていたのであった。
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そうだ、俺は『彼女』を知っていた。
『彼女』は……….
彼女は、セツコだった。38歳だ。
自ら名乗ったり、年齢を告げたりするどころか、一言も口をきいてくれていなかったが、彼女はセツコであり、38歳であった。
妙だが、夢の中のことなのだから仕方がない。
街道で「拾った」ばかりであり、勿論、初対面であったが、俺は彼女を知っていた。
彼女は、セツコだったが、セツコではなかった。
彼女は、●●●子先生だ。俺がオープンカレッジで西洋美術史を学んでいる真野講師だ。憧れの美人講師だ。
セツコは、●●●子先生に似ている、というよりも●●●子先生そのものだ。
その証拠に、デコトラの助手席に座りながら、セツコは、いや●●●子先生は、俺に西洋美術史を教え始めていた。
セツコは●●●子先生だ、等と考えていたと思ったら、●●●子先生は俺に、ドラクロワ、インモー、天国の門、アトリビュート等を教えてくれていた。
感激だ。プライベート・レッスンだ。
教えてくれていた内容は、既に習ったものであったが、勉強は復習が大切だ。有難い。
有難いが、俺の眼は、やはり●●●子先生の膝もとにいっていた。
時々、視線を上げて、先生の唇を凝視めた。
薄いピンクの紅が塗られた先生の唇は、インモ~とでも云っているのか、横に広がったり、丸く尖ったりしてした。
その唇が、声を発した。これまでも声は発していたのだろうが、俺の耳には今、初めて聞こえたのだ。
「暑いわ」
先生の首からダイヤモンドにも俺には見えた大粒の汗が流れ、ボートネックのサマーセーターの中に入っていった。
その汗の行く先を思い、俺は唾を飲み込んだ。
自分が、興奮から臭いも発したことを感じた。
マズイ!俺は臭い。俺も汗をかいているし、今、興奮フェロモンも発してしまったことを感じた。
しかも、俺はパジャマを着ていた。俺は、寝るときだけではなく、起きてからも、更には外出時にも、パジャマを着たままだ。
もう3ヶ月も着たままだ。絶対臭っているはずだ。マズイ!
しかし、●●●子先生も眼で俺の首筋の汗を追っていた。愛おしそうに。
俺はまた唾を飲み込んだ。喉仏が、ゴクリと動いた。
俺の喉仏の動きを見て、先生は、ピンクの紅の唇を舌で舐めた。
「俺は男だ」
この汗臭いオトコに先生は参ったのか…….
俺はもう前を向いて運転していなかった。
マズイ、と思い、前方を向いた瞬間、前から別のデコトラがこちらに向かってきていた。
「は、は、反対車線に入ってしまったのだ、ぶつかるう!」
と、目をつぶった…….
….と、
「シャワー浴びてきていいかしら」
という声が聞こえた。眼を開けた。
俺はベッドの上で胡座をかいていた。
「何が起きたのだ」
俺はまた、夢の中で記憶を辿った。
夢の中に記憶というものがあるものなのか疑問をもう持たず、俺は思い出した。
デコトラの中で、先生は俺に云った。
「トンミーさんはいつも勉強熱心ねえ」
先生は俺の名前を知っていたのか。
「この前の講義、欠席なさったでしょ。ボッティチェリの1回目だったわ」
そうだ、『ヴィーナス誕生』の講義を俺は楽しみにしていたが、急用で行けなかったのだ。
「個人授業しましょうか。でも、汗かいちゃったから、次のインターを降りたところのホテルで汗を流したいわ」
インターを降りたところのホテルって、そういうホテルではないか!
先生は、次のインターを降りたところにホテルがあることを何故、知っているのか?
いや、その前に俺のデコトラはいつの間に「高速」を走っていたのだ。
街道を走っていて、対向車線に入ってしまい、別のデコトラをぶつかるところだったではないか、と疑問を持った記憶もなくはなかったが、そんなことはどうでもよかった。
先生とホテルに入ることを考えただけで俺は目が眩んだのであったのだ。
…そうして、俺は先生とそういうホテルに入り、
「シャワー浴びてきていいかしら」
と先生が艶かしい声をかけてきたのだ。
「俺も一緒にシャワーを浴びたい」
と云ったが、
「トンミーさんは、そのままがよろしくてよ。汗いっぱいのままの方が」
そうか、やはり先生は、俺の汗臭いオトコに先生は参ったのだ!
俺は期待に胸を膨らませた。アソコも膨らませた。俺はもう堪らなくなっていた。
と、鼻に熱いものが走った。鼻血だ!鼻血が出るう!
その瞬間、俺はのけぞった。のけぞり、ベッドに背から倒れ込んだ。
「鼻血でシーツが赤く染まる」
と思ったが、その時、俺は新幹線の運転台に座っていた。
500型「のぞみ」の運転をしていたのだ。
「?」
何が起きたのか、判らなかった。
助手席を見た。助手席は畳まれており、運転台には先生はいなかった。
シャワーを浴び終えた先生がバスタオルを体に巻いて運転台にいるのでは、と滅裂な期待を持ったが、運転台には俺しかいなかった。
しかし、俺はホッとした。残念な気持ちもあったが、ホッとした。
「俺は妻を裏切らなかった」
そうだ。あのままホテルにいたら、俺は先生の「個人授業」を受けていただろう。
「ボッティチェリの『ヴィーナス』ってこうよ」
と、先生は自らの体を使って、『ヴィーナス』を再現してくれていただろう。
そうすると、俺は「一線」を超えてしまっていただろう。
だが、俺は妻を愛している。
先生と「一線」を超えたいという欲望も強かったが、その一方で、俺が変態であることも知らず、結婚して30年近くも経つのに未だ清純なままの妻への愛情も強かった。
「俺は妻を裏切らなかった」
俺は、ホッとしていた。
その時、俺は、新幹線の脇を走る街道を左手に、一足の壊れたハイヒールを持ち、裸足でつま先立ちで歩く女を見た。●●●子先生だ!
しかし、デコトラと異なり、新幹線では先生を「拾う」ことはできない。
「いいのだ。いいのだ、これで」
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「アータ、起きてえ。そろそろお昼にするわよ」
再び、妻の声が聞こえた。
まだ、11:45だ。
妻の声に目覚めたビエール・トンミー氏は、快感と良心の呵責とが入混ざった複雑な感覚に、まだベッドから立ち上がることができないままでいた。
「アータ、アータの好きな長くて太いウインナーもあるわよ」
妻は可愛い。妻は恥じらいから、そう云ったのだ。
長くて太いウインナーが好きなのは、ビエール・トンミー氏ではなく妻の方なのだ。
「俺は妻を裏切らなかった。夢の中だが、俺は妻を裏切らなかった」
安堵したビエール・トンミー氏はようやくベッドから立ち上がり、ダイニング・ルームに向かった。
(おしまい)
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