「エヴァさん、曲がれるよね?」
列のすぐ前にいた女性が振り向いて云ったその言葉を聞いた時、エヴァンジェリスト氏は、統合幕僚監部に所属する幹部自衛官がある国会議員に対して、「お前は国民の敵だ」と云ったと聞いた時、それは、ある意味で『真っ直ぐな』言葉であり、軍隊というものはそういうものだと思うようになることを、まだ知らなかった。
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1980年12月、上池袋の『3.75畳』の下宿でエヴァンジェリスト氏は、修士論文『François MAURIAC論』の執筆に集中していた。
François MAURIAC』(フランソワ・モーリアック)の最高傑作『蝮の絡み合い』(『Le Nœud de Vipères』)を境にフランソワ・モーリアックの小説は変わる、と捉えていた。
『蝮の絡み合い』の主人公であるルイは、憎悪と吝嗇に蝕まれた罪の人間であるが、彼は救いへと導かれた。
しかし、『蝮の絡み合い』以前の小説である『愛の砂漠』[Le désert de l' amour]で妻以外の女(マリア・クロス)に恋する医師クーレージュは、救われるに到らない。
また、『テレーズ・デスケイルー』[Thérèse Desqueyroux]の夫を毒殺しようとした『テレーズ・デスケイルー』も救われるに到らない。
『蝮の絡み合い』のルイと、医師クーレージュ、テレーズ・デスケイルーとの差異が生じた理由を、『罪人の復権』とでも呼ぶべき思想の有無と考える。
『罪人の復権』とでも呼ぶべき思想を、フランソワ・モーリアックは、『蝮の絡み合い』で初めて示した。
では、『罪人の復権』なる思想は、一体、如何なるものであるのか……
………………….このように、修士論文『François MAURIAC論』の執筆に没頭するエヴァンジェリスト氏には、空耳にでも
「あ……んん……」
という『哭き声』は聞こえなくなっていた。
エヴァンジェリスト氏は、医師クーレージュの独白に胸が詰まる。比喩的表現ではなく、実際に、肉体的に胸が詰まるのだ。
「マリア、私は、貴女が思うようなものではないのだ。私は、ただただ浅ましい男なのだ。他の男たち同様、欲望に取り憑かれている男にすぎないのだ」
エヴァンジェリスト氏は、ペンを置き、右手で左胸を抑え、目を閉じた。
「クーレージュよ、貴方は、自分を知っている。己を見ている。貴方は苦しんでいる。でも、私は貴方の苦しみを知っている。私だって…..」
自分がモーリアックの小説を読むのは、医師クーレージュのように、己を見る、己の醜さを知っている作中人物たちの思いに触れたいからなのだ。彼らの苦しみを自らの身で体感することが、辛く、しかし、ある種の快感ともなるのだ。
そして、修士論文『François MAURIAC論』を書くことも、己の醜さを知り、それに苦しむモーリアックの作中人物たち思いを辿り、彼らに、
「貴方たちの苦しみを私は知っている。貴方たちだけではないのだ。私も同じなのだ。私の心も醜悪だ」
と伝える行為なのであった。
それは、快感でもあったが、やはり辛い行為であった。医師クーレージュやルイの心中の叫びに共感することに、快感があったことは間違いないが、彼らの苦しみを共にすることは、肉体的な苦しみをエヴァンジェリスト氏に与えていたのだ。
その時、エヴァンジェリスト氏の耳に聞こえていたのは、もう、
「あ……んん……」
という『哭き声』ではなく、
「私は、ただただ浅ましい男なのだ」
という医師クーレージュの独白、彼の絶望であった。
エヴァンジェリスト氏は、苦しかった。だから、目を閉じ、右手で左胸を抑えたのである。
しかし、エヴァンジェリスト氏の身に、モーリアックの作中人物への共感による苦しみよりも遥かに強烈な苦痛が与えられるのだ。
(続く)