「エヴァさん、曲がれるよね?」
列のすぐ前にいた女性が振り向いて云ったその言葉を聞いた時、エヴァンジェリスト氏は、極めて親しい友人であり、『Monsieur Minitel au Japon(ムッシュウ・ミニテル・オ・ジャポン:日本のミスター・ミニテル)』と呼ばれるようになる男も、『曲がったことが嫌いな男』であるが故に、『日本語ミニテル協会』に於いて、上司であるフランス人プロジェクト・マネジャーと衝突することになることを、まだ知らなかった。
(参照:ミニテルは死なない)
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1980年、上池袋の『3.75畳』の下宿で、エヴァンジェリスト氏が、炬燵を机に修士論文『François MAURIAC論』を書いていると、どこからか泣き声が聞こえて来た。
「あ……んん……」
という泣き声は、半間の押入れから聞こえてきているようであったが、押入れの中には勿論、誰もいない。
それは、隣室の極めて普通のサラリーマンの『お兄さん』の泣き声でもなく、隣室の隣室の50歳台と思しき『お父さん』の泣き声でもなかった。
「あ……んん……」
というその泣き声は、女性のものであったからなのであったのだ。
「誰だ?」
エヴァンジェリスト氏の住むその下宿には、女性の住人はいなかったのだ。大家は、未亡人であったが、1階に住んでいた。
「どこかの部屋に女性が訪れてきており、何か揉め事でもあり泣き出したのであろうか……..」
と思った時、思い出した。
その夜、エヴァンジェリスト氏は、週に一、二度は行く、近所の蕎麦屋『増田屋』で、木の葉丼にしようかと思いながら、結局は、カツ丼を食べ、そのまま、『増田屋』のすぐ横の路地を入ったところにある銭湯『堀之内浴場』に入った。
『堀之内浴場』では、『有難いモノ』を見た。お経である。
「おお、有難いことだ。これは、きっと何かいいことがあるぞ」
こうして、『堀之内浴場』で身も心も清めたエヴァンジェリスト氏は、下宿に戻り、濡れて絞ったタオルと石鹸を入れた洗面器とその上に載せたバスタオルを部屋に置くと、小用をたす為、部屋を出た。
その時、会ったのだ。
共同トイレに行くべく『3.75畳』の部屋を出た瞬間であった。
『あの男』とすれ違ったのだ。
『あの男』は、『お父さん』の隣室、下宿の一番奥の部屋に住む男である。
エヴァンジェリスト氏にとって、『お兄さん』(歳上)であるのか、そうではないのか、判然としない男であった。
20歳台とは思えたが、サラリーマンには見えなかった。とはいえ、学生にも見えなかった。
今風に云うならば、『フリーター』のように見える男であろうか。
廊下で会っても挨拶をすることもない男であった。非常識極まりない程の男ではなかったが、時折、部屋でステレオの音を少々大きめに何かレコードをかけた。
エヴァンジェリスト氏の部屋から遠い部屋であったので、クレームを入れる程ではなかったが、いい印象の男ではなかった。
そして、男は、醜男であった。やや面長の醤油顔の醜男であった。廊下で会うと、相手と目を合わせず、その醜面を、どこか拗ねたように、ややひん曲げるのであった。
『その男』とすれ違ったのだ。
『増田屋』でトンカツを食べ、『堀之内浴場』で入浴を済ませ、下宿に戻り、濡れて絞ったタオルと石鹸を入れた洗面器とその上に載せたバスタオルを部屋に置いて、共同トイレに行くべく『3.75畳』の部屋を出た瞬間に、『あの男』とすれ違ったのだ。
いや、すれ違ったのは、『あの男』だけではなかった……
(続く)
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