「エヴァさん、曲がれるよね?」
列のすぐ前にいた女性が振り向いて云ったその言葉を聞いた時、エヴァンジェリスト氏は、仕事を完全リタイアした後も『西洋美術史』を学ぶ程、向学心はあるが、やはり変態である友人ビエール・トンミー氏が、散歩に行く時だけではなく、銀行に行くときですら、パジャマのまま出かける程にパジャマ『一筋』になることを、まだ知らなかった。
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「けしからん!」
1980年、エヴァンジェリスト氏は、当時住んでいた上池袋の下宿の『3.75畳』で、開けっ放しとしている半間の押入れの上段に両肘を付き、上半身を押入れの中に入れたまま、怒っていた。
「あ……んん……」
という泣き声が、『3.75畳』の入口側にあった半間の押入れから聞こえてきたのだ。
最初、隣の『お兄さん』の部屋から聞こているかと思ったが、、それは、隣の『お兄さん』の部屋の隣の部屋の『お父さん』の鳴き声でもなかった。
「あ……んん……」
という泣き声は、女性のものであった。しかも、その泣き声は、『泣き声』ではなく、女性が男性に『哭かされている声』であった。
そして、下宿の一番奥の部屋に住む醜男が、『女』を部屋に連れ込むところに遭遇したことを思い出した。
「醜男のくせに!どうせ、『女』もブスだ」
そう思ったが、股間の硬直と発熱はそのままであった。
「こんな安普請の下宿でけしからん!この下宿でソンナことをすると、聞こえるに決まっているではないか!」
と怒りながらも、エヴァンジェリスト氏はまだ、身を押入れの中に入れたままであった。
「羨ましくなんかないぞ。だが、許せん!『女』を下宿に連れ込み、他の部屋に聞こえるように『女』を『哭かせる』なんて『曲がったこと』をするのは大っ嫌いだ!」
しかし、半間の押入れの上段に両肘を付き、上半身を押入れの中に入れることで、エヴァンジェリスト氏の体は『く』の字に『曲がったまま』であった。
『曲がった』姿勢のまま、エヴァンジェリスト氏はなお、
「あ……んん……」
という『哭き声』を聞こうとしていた。
「あ……んん……」
という『哭き声』が聞こえたその日、エヴァンジェリスト氏はもう、修士論文『François MAURIAC論』の執筆に向うことができなかった。
「あ……んん……」
という『哭き声』が耳にこびりつき、François MAURIAC』(フランソワ・モーリアック)の最高傑作『蝮の絡み合い』(『Le Nœud de Vipères』)の主人公である老人の心の闇に思いを寄せることができなくなった。
エヴァンジェリスト氏の頭の中で『絡み合っていた』のは、蝮ではなく、あの醜男とあの『女』(多分、ブス)であった。
次の日から、エヴァンジェリスト氏はまた、修士論文『François MAURIAC論』の執筆に向った。
しかし、時々、
「あ……んん……」
という『哭き声』がまた聞こえてきたような気がした。
そして、その度に、開けっ放しとしている半間の押入れの上段に両肘を付き、上半身を押入れの中に入れ、体を『く』の字に『曲げたまま』、天井に向って耳をすませた。
二度と、
「あ……んん……」
という『哭き声』が聞こえてくるようなことはなかったが、エヴァンジェリスト氏の股間は硬直し、発熱した。
「けしからん!」
と呟きながらも、心の底で『哭き声』を期待している自分をエヴァンジェリスト氏は知っていた。
エヴァンジェリスト氏は、『曲がったことが嫌いな男』である。
だから、自身の本心を誤魔化すことはできなかった。
エヴァンジェリスト氏は、『曲がったことが嫌いな男』である。
だから、この『哭き声』事件から学んだことがあることもエヴァンジェリスト氏は隠すことができない。
(続く)
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