2017年10月29日日曜日

【ゲス児童】『くしゃれ緑』な『ウンギリギッキ』(その31=最終回)[M-Files No.5 ]



『広島市立皆実小学校』6年10組の教室の横にあった体育用具準備室に入ったところで、エヴァンジェリスト君は、呆然と立ち尽くしていた

「ヒェーッ!」

という悲鳴と、

「ウンギリギッキ!ウンギリギッキ!」

という叫び声が、体育用具準備室の中で鳴り響いていた。

ヨシタライイノニ君が、ヒフノビ君に背後から抱きつき、股間をヒフノビ君の臀部に押し当て、腰を前後に振理、その腰の振りに合せて、

「ウンギリギッキ!ウンギリギッキ!」

と叫んでいたのだ。

ヒフノビ君は、

「ヒェーッ!」

という悲鳴を上げ、逃げて行ったが、ヨシタライイノニ君は、ヒフノビ君に腰からついて行き、腰を振りながら、繰り返した。

「ウンギリギッキ!ウンギリギッキ!」

1966年、日本の高度経済成長期の真っ只中の少年たちであった。






「ウンギリギッキ!ウンギリギッキ!」

ヨシタライイノニ君が始めたこの新流行は、6年10組の男子たちを虜にした。

休憩時間となると、6年10組の男子たちは、直ぐに6年10組の教室を出て、体育用具準備室に行った。そして、そこで、誰かれ構わず、背後から抱きつき、

「ウンギリギッキ!ウンギリギッキ!」

と腰を振った。

抱きつかれた方は、

「ヒェーッ!」

と、喜びに満ちた悲鳴を上げた。

『ウンギリギッキ!』が流行り始めた当初は、体育用具準備室の片隅で傍観していたエヴァンジェリスト君も、いつの間にか、

「ウンギリギッキ!ウンギリギッキ!」

と腰を振るようになっていた。ヒフノビ君に抱きつくことが多かった。

ヒフノビ君は、主に『ヤラレ役』であった。肌が異常に柔らかく、彼に抱きつくと気持ち良かった。

エヴァンジェリスト君が背後から抱きつかれることもあった。

ある時は、体操の得意なテツボウ君に襲われ、臀部に彼の股間をぐいぐい押し付けられた。

「ヒェーッ!」

エヴァンジェリスト君は、思わず悲鳴を上げた。悲鳴を聞くと、テツボウ君は、余計にガンガン股間を押し付けて来た。

「ヒェーッ!ヒェーッ!」

テツボウ君の股間が、やけに硬かった。『テツボウ』のように硬かった。だが、どうして、そんなに硬いのかと疑問を持つ暇もなかった。

「ヒェーッ!」

なんだか不思議な気持ちになって来たので、しかも、それは決して『快い』感じのものではなかったので、なんとかテツボウ君の『攻撃』を振り切り、走って逃げた。

自分は、やはり抱きつく方がいい、と思い、丁度、その時、空いていたヒフノビ君を見つけ、背後から思い切り、抱きついた。そして、思い切り、腰を振った。

「ウンギリギッキ!ウンギリギッキ!」

役柄をわきまえたヒフノビ君は、いつものように、

「ヒェーッ!」

と悲鳴を上げた。

「ウンギリギッキ!ウンギリギッキ!」

エヴァンジェリスト君は、腰を振り続けた。その時、『トウキョウ』子さんのことは、頭から消えていた。

『トウキョウ』子さんへの恋心がなくなった訳ではなかったが、それよりも『くしゃれ緑』『ウンギリギッキ!』に夢中になっていた。

『くしゃれ緑』が何であるかは分っていなかった。ただ、肌を露わにした女性の映画の看板から、触れてはイケナイことだが、そのイケナイことが何か甘美なもののように思えた。

『ウンギリギッキ!』もそれが何であるのか、全く分っていなかった。

ヨシタライイノニ君やテツボウ君は、『ウンギリギッキ!』が何を意味する行為か、多分、分っていたのであろう。だから、テツボウ君の股間は硬くなっていたのだ。

しかし、エヴァンジェリスト君は、級友たちに遅れてはならじと、

「ウンギリギッキ!ウンギリギッキ!」

と励むようになってはいたが、その行為の意味は、全く理解していなかった。

意味を理解していたら、妄想の中の『妻』である『トウキョウ』子さん『ウンギリギッキ!』を結び付け、エヴァンジェリスト君の股間は破裂していたことであろう。

だが、『くしゃれ緑』『ウンギリギッキ!』により、それまで純であったエヴァンジェリスト君は、『ゲス児童』への道を歩み始めたのである。

「ウンギリギッキ!ウンギリギッキ!」


1966年、太平洋戦争後、21年経ったその年、『広島市立皆実小学校』6年10組の教室の横にあった体育用具準備室は、『ゲス児童』たちの悦楽の園となっていた。

『ゲス児童』たちは知らない。

彼らが、『くしゃれ緑』と叫び、『ウンギリギッキ!』と腰を振って遊び回る地は、つまり、広島市の土地は、断面をとると、ところどころ白い層があるらしい、ということを『ゲス児童』たちは、知らなかった。

5000度という原爆の温度により人間の骨は原型を留めずパウダー状となったのだそうである。

広島市の土地の断面のところどころある白い層は、人骨である。

『ゲス児童』たちは、広島の子たちだ。原爆のことはよく知っていた。1966年当時は、まだしないで普通に体にケロイドを持つ人を見かけた。

『ゲス児童』たちは、多分、他の地域の子たちよりもずっと『戦争』なるものを知っていた。

しかし、『ゲス児童』たちは、『くしゃれ緑』と叫び、『ウンギリギッキ!』と腰を振っていた。彼らには、『戦争』はもうないものであった。

だが、『ゲス児童』たちが『くしゃれ緑』と叫び、『ウンギリギッキ』と腰を振っている地の下の人骨たちにとっては『戦争』は永遠に終わらないのだ。彼らの人生は、『戦争』により永遠に中断されたままであるのだ。彼らはただ普通に生活をしていたのだ。しかし、その生活は、自身の意思によらず、途切れさせられたのだ。

自らが『入市被爆者』(原爆投下後に広島市内に入り、放射線を被爆した人)であり、原爆により母と弟とを失い、『ヒロシマ』を世界に訴えているにも拘らず、広島市の平和記念公園で行われる慰霊祭に一度も出ていない方がいる(田邊雅章さんという方だ)。

爆心地に近い平和記念公園の下には(そこは原爆投下まで広島の繁華街であった)、原爆で壊された建物や、そこで亡くなった5000人以上の人たちがそのまま埋められているのだそうだ。

そこは余りにも被害がひどく公園にするしかなかった、という。だから、平和記念公園の土地は、1メートル嵩上げされており、少し掘ると瓦礫が出てくるらしい。

亡くなった人たちがそのまま埋められている地を(平和記念公園を)踏みつけることができない。だから、田邊雅章さんが、慰霊祭に出られないのだそうだ。

田邊雅章さんは、また原爆投下後の何もなくなっていた広島市内の様子について、人が人としての良心をなくしていたという。要は、人々は犯罪行為をしていたのだが、そのことを誰も口にしない、できないで来ている、という。

田邊雅章さんは、間も無く(2017年10月時点で)80歳になられる。存命でいらっしゃる。田邊雅章さんにとって、そして、田邊雅章さんや田邊雅章さんと同じような経験をされた方々にとっては、まだ『戦争』は終っていない。多分、永遠に終らない。それが『戦争』である。人が自身の意思で人生を決める権利を奪うものが『戦争』である。自衛の為であろうと、或いは、何がしかの『正義』と称するものの為であろうと、それが『戦争』である。

『ヒロシマ』に限らず、日本中の多くの地の下には、『戦争』で亡くなった方々が眠っているであろう。

しかし、人々はそのことを知らず、そして、1966年、『広島市立皆実小学校』6年10組の『ゲス児童』たちも、何も知らずに、『くしゃれ緑』と叫び、『ウンギリギッキ!』と腰を振っていたのである。



………1966年、『ゲス児童』は山口県宇部市にもいた。

『琴芝のジェームズ・ボンド』こと、『宇部市立琴芝小学校』の6年生のビエール・トンミー君である。

ビエール・トンミー君は、『いきものがかり』としての役目を真面目に励行する一方で、誰に云えない『行為』に耽っていた。

『うつ伏せ寝』である。

宇部市も空襲を受けていた。計8回受けたそうだ。その内、1945年7月29日の空襲は、原子爆弾投下専門部隊による模擬原爆3発の投下であったであったそうだ。

宇部市の空襲による死者は254人、負傷者は 557人、行方不明者68人、罹災人員25,424人だそうである。

『ヒロシマ』より死者等は少ない。ずっと少ない。しかし、死者の数が問題ではない。宇部市でも多くの人々が、『戦争』により人生を狂わされていたはずである。

しかし、ビエール・トンミー君は、その地で、『うつ伏せ寝』をし、尺取り虫みたいに腰を上下させていたのである。

呑気なものであった。

『うつ伏せ寝』をしたビエール・トンミー君は、夢想していた。

同じ『いきものがかり』の女の子が、いや、鶏小屋の中で餌やりの為にしゃがんだ女の子のスカートの奥の白いパンツが、見えた。

そして、その女の子が、立ち上がると、彼女の下半身は、透けた白いスカーフをまとったような若い女性の下半身に変っていた。『かわいい魔女ジニー』である。

『ジニー』の下半身が見えてきた時、股間が膨らみ、ムズムズし始めた。

「ごめんね、ジロー」

今度は、女性歌手の姿が浮かんできた。小悪魔的と云われた容姿の奥村チヨであった。

その時、脳を通さず、股間が条件反射したのだ。それはその時が初めてではなかった。

しかし、その時の条件反射は、それまでにない強いものであった。

「うっ!」

ビエール・トンミー君は、思わず呻き声を発した。ビエール・トンミー君は、股間を押さえ、自身に生じた『異変』を知った。

その時、ビエール・トンミー君は、後に友人となるエヴァンジェリスト君を凌駕する『ゲス児童』となった。


(おしまい)




【ゲス児童】『くしゃれ緑』な『ウンギリギッキ』(その30)[M-Files No.5 ]



1966年、『広島市立皆実小学校』6年10組で流行語となった『くしゃれ緑』は、実は、『くされ縁』であった。

『くされ縁』は、1965年に公開された志賀隆・監督の成人映画である。

春の遠足に行く貸切バスの中から、『くされ縁』の看板を見た6年10組のヨシタライイノニ君が、

「『くしゃれ緑』!」

と叫んだのだ。

成人映画『くされ縁』の看板を見て興奮したヨシタライイノニ君が、その言葉を叫んだ時、『くされ』を『くしゃれ』のように発音してしまい、『縁』を『緑』と見間違えてしまったのだ。

かくして、『くされ縁』が、『くしゃれ緑』となった。

「『くしゃれ緑』!」
「『くしゃれ緑』!」
「『くしゃれ緑』!」

6年10組の男子たちは、休憩時間になると、教室の横にあった体育用具準備室に入り込み、そう叫び合うようになった。

エヴァンジェリスト君も、妄想の中の『妻』でありクラス.メイトである『トウキョウ』子さんに軽蔑されないか気にしながらも、体育用具準備室で、『くしゃれ緑』と叫んでいた。

その体育用具準備室で、新たな流行が始ったのである。





『くしゃれ緑』に次ぐ、新たな流行を始めたのも、ヨシタライイノニ君であった。

その日、お昼休みに、給食を食べ、いつものように体育用具準備室に入って行くと、聞きなれない言葉が、悲鳴と共に耳に入って来た。

「ヒェーッ!」

という悲鳴を覆うように、その言葉が聞こえた。

「ウンギリギッキ!ウンギリギッキ!」

それは、ヨシタライイノニ君の声であった。

ヨシタライイノニ君は、ヒフノビ君に背後から抱きつき、股間をヒフノビ君の臀部に押し当て、腰を前後に振っていた。

その腰の振りに合せて、

「ウンギリギッキ!ウンギリギッキ!」

と叫んでいたのだ。

ヨシタライイノニ君が何をしているのか、エヴァンジェリスト君は分らなかった。

逃げて行くヒフノビ君に腰からついて行き、ヨシタライイノニ君は、繰り返した。

「ウンギリギッキ!ウンギリギッキ!」

ヒフノビ君は前屈し、

「ヒェーッ!」

と悲鳴を上げながらも、眼鏡の奥の目は、『へ』の字になっていた。

体育用具準備室入ったところで、エヴァンジェリスト君は、呆然と立ち尽くしていた。


………1966年、『琴芝のジェームズ・ボンド』の噂は、『琴芝小学校』、神原小学校、宇部学園女子中学・高校(今の慶進中学・高校)、宇部中央高校といった学校の枠を超え、更に、琴芝という地域の枠も超え、宇部市中に広まっていった。

しかし、『琴芝のジェームズ・ボンド』、つまり、『宇部市立琴芝小学校』の6年生のビエール・トンミー君は、『いきものがかり』と『うつぶせ寝』に専念していた。

ビエール・トンミー君に、『いきものがかり』として世話をやいてもらう鶏たちは、餌がいいのか、或いは、『いきものがかり』の魅力に反応したからか、沢山、卵を生むようになっていた。

そして、『うつぶせ寝』の方も進化して来ていた。

その日も、ビエール・トンミー君が、妹の目を盗んで『うつ伏せ寝』をしていると、

「お兄ちゃん、何してんの?」

いきなり妹の声がした。妹がいつの間にか部屋に入って来ていたのだ。

「マズイ!」

と思ったが、そう声には出さなかった。

「尺取り虫みたい、ふふ」

妹は、そう笑った。

「尺取り虫?」

と思ったが、そう声には出さなかった。

「おもしろーい!」

そうだ、ビエール・トンミー君は、無意識の内に、『うつ伏せ寝』の状態で、腰を上げ下げしていたのだ。

「ああ、尺取り虫だよ」

と云うと、ビエール・トンミー君は、『うつ伏せ寝』したまま、腰を上げ下げして見せた。

「もっとしてえ!」

妹のリクエストに応えて、ビエール・トンミー君は、『尺取り虫』を繰り返した。


その姿は、『尺取り虫』の他にも、何かに似ていた。

そう、ビエール・トンミー君は、知らなかったが、同じ時期、『広島市立皆実小学校』6年10組の教室の横にある体育用具準備室で流行り始めていたウンギリギッキ!』に似ていたのだ。


(続く)





2017年10月28日土曜日

【ゲス児童】『くしゃれ緑』な『ウンギリギッキ』(その29)[M-Files No.5 ]



「『くしゃれ緑』!」

エヴァンジェリスト君も、友だちとの会話の中で、その言葉を口にするようになった。

エヴァンジェリスト君も、『結婚』やら『男女のこと』が、好き合った男女が一緒に暮らすだけ、一緒にいるだけのものではないらしいことを感覚的に捉え始めたのであった。

『結婚』やら『男女のこと』が、明確に分った訳ではなかったが、『くしゃれ緑』という言葉を口にしたり、聞いいたりすると、その言葉が、1966年の『広島市立皆実小学校』6年10組で流行るきっかけとなった、あの映画館の看板が瞼に浮かんで来るのであった。

「(映画館の看板の)あの女の人は、どうして服を脱ぎかけていたのだろう?」

そう思うようになった。

ヨシタライイノニ君が始めた『くしゃれ緑』は、エヴァンジェリスト君の安寧を揺るがしたのだ。

そして、次の流行が、ついにエヴァンジェリスト君を『ゲス児童』への道を歩ませることになったのである。






ところで、『くしゃれ緑』とは、一体、何であったのであろうか?

それは、やはり成人映画のタイトルであった。1966年当時、エヴァンジェリスト君は、成人映画という映画のジャンルも、その言葉自体も知らなかった。

成人映画は、『ピンク映画』、『ポルノ映画』であるが、1966年の頃はまだ、『ピンク映画』、『ポルノ映画』という言葉は使われていなかった。

『ポルノ映画』という言葉が造られたのは、もう少し後のようであるし、『ピンク映画』はちょうどその頃に造られたようではあるが、まだ一般には使われていなかった。

当時、成人映画は、『成人映画』であったが、エヴァンジェリスト君は、その言葉を知らず、それがどんなものであるのかも知らなかった。

『男女のすること』も知らなかったのだから、『成人映画』の何たるかも知る由もなかった。

しかし、『成人映画』が何であるのか、『男女のすること』を知る切っ掛けとなったのが、『くしゃれ緑』であったのだ。

そして、『くしゃれ緑』が、実は『くしゃれ緑』ではないことを、エヴァンジェリスト氏は60歳を過ぎて、つまり、『くしゃれ緑』を知って50年程経って知った。

『ピンク映画』、『ポルノ映画』を見たり、その看板を見る度に、『くしゃれ緑』という言葉を思い起こしていたが、その妙な言葉が何を意味するのか、疑問に思っていた。

だが、60歳過ぎたある日、ふと思いついた言葉あり、ネットでその言葉の『成人映画』がないか調べ、分ったのである。

それは、1965年に公開された志賀隆・監督の作品である。

『くしゃれ緑』は、『くしゃれ緑』ではなく、『くされ縁』であったのだ。

成人映画『くされ縁』の看板を見て興奮したヨシタライイノニ君が、その言葉を叫んだ時、『くされ』を『くしゃれ』のように発音してしまったのだ。そして、『縁』を『緑』と見間違えてしまったのだ。だから、『くしゃれ緑』なのである。

ヨシタライイノニ君の叫んだ『くしゃれ緑』を他の男子たちが、そのまま使用するになり、エヴァンジェリスト君の属した『広島市立皆実小学校』6年10組では、『くしゃれ緑』が、『性』に目覚める年頃の子どもたちの大流行語となったのであった。

『くしゃれ緑』は実は、『くしゃれ緑』ではなく、『くされ縁』であったが、言葉が何であれ、その言葉を切っ掛けに、エヴァンジェリスト君も『性』を知り始めることになったのである。

それまで、エヴァンジェリスト君にとって、彼が妄想する『帰国子女』子ちゃんや『『トウキョウ』子さんとの『結婚』は、好き合った男女が一緒に暮らすだけのものであり、手を握ることも夢想だにするものではなかった。

だが、『くしゃれ緑』から、どうやら『結婚』は、好き合った男女が一緒に暮らすこと以上の何かがあるように感じ始めたのだ。

『くしゃれ緑』という言葉を耳にし、その言葉と共に見た『肌を露わにした女性が描かれた映画の看板』を思い出すと、エヴァンジェリスト君は、股間に『異変』を生じるようになって行ったのだ。

ヨシタライイノニ君が始めた『くしゃれ緑』は、それまで純であったエヴァンジェリスト君を『ゲス児童』への道を歩ませることになったのである。

『広島市立皆実小学校』6年10組の男子たちは、休憩時間になると、6年10組の教室の横にあった体育用具準備室に入り込み、

「『くしゃれ緑』!」
「『くしゃれ緑』!」
「『くしゃれ緑』!」

と叫び合った。

そして、やがて、その体育用具準備室で、新たな流行が始ったのである。


………1966年、山口県宇部市の『琴芝小学校』の6年生のビエール・トンミー君は、クラスで、学年で、別格であった。

常に成績は、トップであった。テストは、100点を取ることも多く、90点を下回る点を取ることは決してなかった。

しかし、ビエール・トンミー君が別格であったのは、頭脳だけではなかった。容姿も別格であった。

彼の2歳下の妹のクラスの女の子が、彼に憧れていたのは既に述べた通りであるが、彼に熱い視線を送っていたのは、その子だけではなかった。

ビエール・トンミー君は、『琴芝小学校』の殆どの女子たちの憧れとなっていたのである。

いやいや、ビエール・トンミー君の美貌が轟いたのは、『琴芝小学校』内だけではなかった。

神原小学校の女子児童たち、宇部学園女子中学・高校(今の慶進中学・高校)の女子生徒たち、宇部中央高校の女子生徒たちの間でも評判となっていたのである。

「ねえねえ、あの子、『007』みたいじゃない?」
「そう、私もそう思ってたわ、ジェームズ・ボンドだわ、あの子」

『007/ゴールドフィンガー』が公開された頃であった。

小学生、中学生、高校生の女の子たちは、『007/ゴールドフィンガー』を見た訳ではなかったが、『ジェームズ・ボンド』は、女性をとろけさせる男の代名詞となっていた

そこで、1966年当時、類まれな美貌を持つビエール・トンミー君は、宇部市琴芝周辺の小学生、中学生、高校生の女の子たちの間で、『琴芝のジェームズ・ボンド』となっていたのである。



しかし、琴芝周辺の女の子たちは知らなかった。

自分たちの憧れの少年が、自宅の部屋のベッドで『うつぶせ寝』にはまっていることを知らなかった。

ビエール・トンミー君の方も、自分が少女たちの憧れの的になっていることを知らなかった。

ビエール・トンミー君は、後年、彼が持つ美貌だけではなく、彼の『ゴールドフィンガー』で女性たちをとろけまくらせることになるのであるが、小学6年の頃は、自分の美貌への自覚はなかった。『ゴールドフィンガー』もまだ、自分の股間に少し使う程度であった。


(続く)




2017年10月27日金曜日

【ゲス児童】『くしゃれ緑』な『ウンギリギッキ』(その28)[M-Files No.5 ]




「おー!おー!『くしゃれ緑』!」

1966年、春の遠足でのことである。

『広島市立皆実小学校』6年10組のみんなが乗ったヒロデン(広島電鉄)の貸し切りバスの中から、突然、クラスのお調子者のヨシタライイノニ君が、訳の分らない叫び声を上げたのであった。

「おー!おー!『くしゃれ緑』!」

その叫び声に驚いたエヴァンジェリスト君は、ヨシタライイノニ君が指差す先を見た。映画館の看板であった。

移動するバスの中から見ただけなので、明瞭に認識できた訳ではなかったが、その映画館の看板の描かれたものは、見てはいけないものであるように思えた。

看板の内容がはっきり見えた訳でもないので、何故、見てはいけないものであると思ったのかは分らなかったが、エヴァンジェリスト君は頬の内側が、自分にしか分からない程度ではあるが、熱くなったのを感じた。

ヨシタライイノニ君が指差した映画館の看板には、肌を露わにした女性が描かれていたように見えたのだ。

その看板を指差し、ヨシタライイノニ君は、叫んだのだ。

「おー!おー!『くしゃれ緑』!」







「『くしゃれ緑』!」
「『くしゃれ緑』!」
「『くしゃれ緑』!」

ヨシタライイノニ君の

「おー!おー!『くしゃれ緑』!」

に呼応するように、他の男子たちも口々に叫び始めた。

「『くしゃれ緑』!」
「『くしゃれ緑』!」
「『くしゃれ緑』!」

すると、

「あんたら、五月蝿いねえ」

デンパ子さんが男子たちに云った。

「静かにしんさいやあ」

オナカダ子さんが注意した。

だが、テツボウ君が、ヒフノビ君が、ボス君が、そして他の殆どの男子たちが合唱した。

「『くしゃれ緑』!」
「『くしゃれ緑』!」
「『くしゃれ緑』!」

エヴァンジェリスト君は、黙っていた。『妻』を意識していたのだ。妄想の中の『妻』である『トウキョウ』子さんの顰蹙を買いたくなかったのだ。

そして、『くしゃれ緑』って何であるのかが、分らなかったからであった。

『くしゃれ緑』というか、どうやらそれが関連している映画館の看板のせいで、頬の内側が、自分にしか分からない程度ではあるが、熱くなったことは確かであったが、何故、そのような現象が起きたのかが分らなかったのだ。

その日の遠足中、男子たちは、事ある度に、

「『くしゃれ緑』!」

と叫び合った。

男子同士で、好きな女の子のことを云い合った時に、

「『くしゃれ緑』!」

手を繋ぐアベック(当時は、カップルのことを、アベックと云った)を見ては、

「『くしゃれ緑』!」

と叫んだ。

その後、『くしゃれ緑』は、『広島市立皆実小学校』6年10組で長く流行することになった。

男女のことに関った話になると必ず、

「『くしゃれ緑』!」

と叫ぶのが、6年10組の男子たちの常となった。

春の遠足では、『くしゃれ緑』に参加しなかったエヴァンジェリスト君も、いつのまにか『くしゃれ緑』を口にするようになっていた。

6年生にもなると、『男女のこと』を意識するようになるのだ。エヴァンジェリスト君も例外ではなかった。

『結婚』を妄想するくせに、エヴァンジェリスト君にとって『結婚』は、好き合った男女が一緒に暮らすだけのものであり、手を握ることも夢想だにするものではなかった。

しかし、友達との会話の中で『くしゃれ緑』を口にするようになり、エヴァンジェリスト君も、『結婚』やら『男女のこと』が、好き合った男女が一緒に暮らすだけ、一緒にいるだけのものではないらしいことを感覚的に捉え始めたのであった。

『結婚』やら『男女のこと』が、明確に分った訳ではなかったが、『くしゃれ緑』という言葉を口にしたり、聞いいたりすると、あの映画館の看板が瞼に浮かんで来るのであった。

「(映画館の看板の)あの女の人は、どうして服を脱ぎかけていたのだろう?」

そう思うようになった。

ヨシタライイノニ君が始めた『くしゃれ緑』は、エヴァンジェリスト君の安寧を揺るがしたのだ。

そして、次の流行が、ついにエヴァンジェリスト君を『ゲス児童』への道を歩ませることになったのである。



………1966年、広島市でエヴァンジェリスト君が、『ゲス児童』への道を歩み始めた頃、山口県宇部市では、『琴芝小学校』の6年生のビエール・トンミー君は、勉学に勤しんでいた。

常に成績は、トップであった。テストは、100点を取ることも多く、90点を下回る点を取ることは決してなかった。

クラスで、学年で、ビエール・トンミー君は、別格であった。

しかし、成績の良さ(頭の良さ)を鼻にかけることもないので、級友たちに嫌われることもなかった。むしろ、級友たちの尊敬を集めていた。

勉強で分らないことがあると、ビエール・トンミー君に訊いた。ビエール・トンミー君は、相手が誰であれ、快く、そして、分かり易く教えてくれた。

しゃかりきになって勉強しなくとも成績はトップであったが、努力をしなかった訳ではない。色々な問題集を買っては、数多くの問題を解いていった。

それは、努力と云えば努力であったが、ビエール・トンミー君にとっては、むしろ喜びであった。

正解をすることが、そして、問題をどんどん解いていくにつれ、より難しい問題も解けるようになることが、快感であった。

その日も、ビエール・トンミー君は問題集を買いに書店に行った。

参考書・問題集のコーナーに行く途中に、ベストセラーのコーナーがあった。

ふと、そのコーナーの棚に平積みにされていた本に目がいった。

『性生活の知恵』…….その本のタイトルである。著者は、なんだか変った名前であった。『謝国権』である。



一人のおじさんが、その本を手に取り、ページを開いた。

ビエール・トンミー君は、見るつもりがあった訳ではないが、おじさんが開いたページが見えてしまった。

その時、ビエール・トンミー君の股間に『異変』が生じた。

ビエール・トンミー君に見えたものは、何か白い人形のようなものであった。『人形』は何体もあった。

『人形』の中には、『うつぶせ寝』状態のものもあったのである。

驚いた。『人形』は何をしているのだろう、と思った。

そして、本のタイトルにある『性生活』って何だろう、と思った。

『性生活』が何であるか分らなかったが、『うつぶせ寝』と関係のあるもののようだ。

ドキドキした。股間が疼いた。

6年生になっても、ビエール・トンミー君は、『うつぶせ寝』にはまっていた。妹が同じ部屋にいない時は、かなりの頻度で『うつぶせ寝』をするようになっていた。

ビエール・トンミー君は、『うつぶせ寝』が、何か『快い感覚』をもたらすものであることは自覚するようになっていた。

そして、そのことは、妹にも、父親にも母親にも知られてはいけないものと本能的に察していたのだ。

その『うつぶせ寝』を、『性生活の知恵』は、大胆にも『人形』にさせているのだ。

ベストセラー・コーナーから参考書・問題集のコーナーに行っても、ビエール・トンミー君の脳裏からは、『うつぶせ寝』した白い『人形』の姿が離れなかった。

そして、股間は疼き続けていたのであった。



(続く)