「『くしゃれ緑』!」
エヴァンジェリスト君も、友だちとの会話の中で、その言葉を口にするようになった。
エヴァンジェリスト君も、『結婚』やら『男女のこと』が、好き合った男女が一緒に暮らすだけ、一緒にいるだけのものではないらしいことを感覚的に捉え始めたのであった。
『結婚』やら『男女のこと』が、明確に分った訳ではなかったが、『くしゃれ緑』という言葉を口にしたり、聞いいたりすると、その言葉が、1966年の『広島市立皆実小学校』6年10組で流行るきっかけとなった、あの映画館の看板が瞼に浮かんで来るのであった。
「(映画館の看板の)あの女の人は、どうして服を脱ぎかけていたのだろう?」
そう思うようになった。
ヨシタライイノニ君が始めた『くしゃれ緑』は、エヴァンジェリスト君の安寧を揺るがしたのだ。
そして、次の流行が、ついにエヴァンジェリスト君を『ゲス児童』への道を歩ませることになったのである。
ところで、『くしゃれ緑』とは、一体、何であったのであろうか?
それは、やはり成人映画のタイトルであった。1966年当時、エヴァンジェリスト君は、成人映画という映画のジャンルも、その言葉自体も知らなかった。
成人映画は、『ピンク映画』、『ポルノ映画』であるが、1966年の頃はまだ、『ピンク映画』、『ポルノ映画』という言葉は使われていなかった。
『ポルノ映画』という言葉が造られたのは、もう少し後のようであるし、『ピンク映画』はちょうどその頃に造られたようではあるが、まだ一般には使われていなかった。
当時、成人映画は、『成人映画』であったが、エヴァンジェリスト君は、その言葉を知らず、それがどんなものであるのかも知らなかった。
『男女のすること』も知らなかったのだから、『成人映画』の何たるかも知る由もなかった。
しかし、『成人映画』が何であるのか、『男女のすること』を知る切っ掛けとなったのが、『くしゃれ緑』であったのだ。
そして、『くしゃれ緑』が、実は『くしゃれ緑』ではないことを、エヴァンジェリスト氏は60歳を過ぎて、つまり、『くしゃれ緑』を知って50年程経って知った。
『ピンク映画』、『ポルノ映画』を見たり、その看板を見る度に、『くしゃれ緑』という言葉を思い起こしていたが、その妙な言葉が何を意味するのか、疑問に思っていた。
だが、60歳過ぎたある日、ふと思いついた言葉あり、ネットでその言葉の『成人映画』がないか調べ、分ったのである。
それは、1965年に公開された志賀隆・監督の作品である。
『くしゃれ緑』は、『くしゃれ緑』ではなく、『くされ縁』であったのだ。
成人映画『くされ縁』の看板を見て興奮したヨシタライイノニ君が、その言葉を叫んだ時、『くされ』を『くしゃれ』のように発音してしまったのだ。そして、『縁』を『緑』と見間違えてしまったのだ。だから、『くしゃれ緑』なのである。
ヨシタライイノニ君の叫んだ『くしゃれ緑』を他の男子たちが、そのまま使用するになり、エヴァンジェリスト君の属した『広島市立皆実小学校』6年10組では、『くしゃれ緑』が、『性』に目覚める年頃の子どもたちの大流行語となったのであった。
『くしゃれ緑』は実は、『くしゃれ緑』ではなく、『くされ縁』であったが、言葉が何であれ、その言葉を切っ掛けに、エヴァンジェリスト君も『性』を知り始めることになったのである。
それまで、エヴァンジェリスト君にとって、彼が妄想する『帰国子女』子ちゃんや『『トウキョウ』子さんとの『結婚』は、好き合った男女が一緒に暮らすだけのものであり、手を握ることも夢想だにするものではなかった。
だが、『くしゃれ緑』から、どうやら『結婚』は、好き合った男女が一緒に暮らすこと以上の何かがあるように感じ始めたのだ。
『くしゃれ緑』という言葉を耳にし、その言葉と共に見た『肌を露わにした女性が描かれた映画の看板』を思い出すと、エヴァンジェリスト君は、股間に『異変』を生じるようになって行ったのだ。
ヨシタライイノニ君が始めた『くしゃれ緑』は、それまで純であったエヴァンジェリスト君を『ゲス児童』への道を歩ませることになったのである。
『広島市立皆実小学校』6年10組の男子たちは、休憩時間になると、6年10組の教室の横にあった体育用具準備室に入り込み、
「『くしゃれ緑』!」
「『くしゃれ緑』!」
「『くしゃれ緑』!」
と叫び合った。
そして、やがて、その体育用具準備室で、新たな流行が始ったのである。
………1966年、山口県宇部市の『琴芝小学校』の6年生のビエール・トンミー君は、クラスで、学年で、別格であった。
常に成績は、トップであった。テストは、100点を取ることも多く、90点を下回る点を取ることは決してなかった。
しかし、ビエール・トンミー君が別格であったのは、頭脳だけではなかった。容姿も別格であった。
彼の2歳下の妹のクラスの女の子が、彼に憧れていたのは既に述べた通りであるが、彼に熱い視線を送っていたのは、その子だけではなかった。
ビエール・トンミー君は、『琴芝小学校』の殆どの女子たちの憧れとなっていたのである。
いやいや、ビエール・トンミー君の美貌が轟いたのは、『琴芝小学校』内だけではなかった。
神原小学校の女子児童たち、宇部学園女子中学・高校(今の慶進中学・高校)の女子生徒たち、宇部中央高校の女子生徒たちの間でも評判となっていたのである。
「ねえねえ、あの子、『007』みたいじゃない?」
「そう、私もそう思ってたわ、ジェームズ・ボンドだわ、あの子」
『007/ゴールドフィンガー』が公開された頃であった。
小学生、中学生、高校生の女の子たちは、『007/ゴールドフィンガー』を見た訳ではなかったが、『ジェームズ・ボンド』は、女性をとろけさせる男の代名詞となっていた。
そこで、1966年当時、類まれな美貌を持つビエール・トンミー君は、宇部市琴芝周辺の小学生、中学生、高校生の女の子たちの間で、『琴芝のジェームズ・ボンド』となっていたのである。
しかし、琴芝周辺の女の子たちは知らなかった。
自分たちの憧れの少年が、自宅の部屋のベッドで『うつぶせ寝』にはまっていることを知らなかった。
ビエール・トンミー君の方も、自分が少女たちの憧れの的になっていることを知らなかった。
ビエール・トンミー君は、後年、彼が持つ美貌だけではなく、彼の『ゴールドフィンガー』で女性たちをとろけまくらせることになるのであるが、小学6年の頃は、自分の美貌への自覚はなかった。『ゴールドフィンガー』もまだ、自分の股間に少し使う程度であった。
(続く)
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