『こどもをかえせ』、『にんげんをかえせ』で有名な『原爆詩集』を書いた詩人峠三吉が、1945年8月6日に被爆した地である広島市翠町をエヴァンジェリスト君は、歩いていた。
1965年春、『広島市立皆実小学校』5年4組のエヴァンジェリスト君は、下校する同級生の『帰国子女』子ちゃんの後をつけていたのだ。
エヴァンジェリスト君には、尾行術の心得がなかったが、『帰国子女』子ちゃんは、まさか自分が後をつけられるとは思っていない。それも同級生の男の子につけられるとは思っていないので、尾行に気付かない。
エヴァンジェリスト君は、ただただ『収まり切らない』想いから、自宅に帰る『帰国子女』子ちゃんの後を追うという『行動』を取ったのだ。
『収まり切らない』想いは、そう、『恋』であった。
峠三吉やその他の多くの人たちが、一瞬にして人生を変えられ、或いは、人生を終えさせられた地(広島)で、しかも、ソレからたった20年しか経っていない時に、呑気にもエヴァンジェリスト君は『恋』にうつつを抜かしていたのだ。
その時、エヴァンジェリスト君の眼中と心中には、『帰国子女』子ちゃんしかなかった。
当時、日常的に、首筋等にケロイドのある人たちを街中で見かけていたが、1965年のその時、そこには、『帰国子女』子ちゃんとその20m後を歩くエヴァンジェリスト君しかいなかった。
いや、他にも誰かいたかもしれないが、エヴァンジェリスト君は、『二人の世界』にいたのであった。
翠町公園の横を通り過ぎ2-3分で、『帰国子女』子ちゃんは、自宅に入って行った。
2階建ての家であった。『帰国子女』子ちゃんは、『帰国子女』ではあったが、家は普通の日本の民家であった。
少し遅れて『帰国子女』子ちゃんの家の近くまで来たエヴァンジェリスト君は、その家の前の狭い道路の反対側にある電信柱に身を隠し、『帰国子女』子ちゃんの家の2階を見上げた。
『帰国子女』子ちゃんの部屋は、2階にあるような気がしたのだ。ただそういう気がしたのだ。そして、その勘は当っていた。それからおよそ半年後(12月だ)、エヴァンジェリスト君は、そのことを確認した。その事情は、追って記す。
だが、その日は、ただ電信柱の陰から『帰国子女』子ちゃんの家の2階を見上げただけであった。
1-2分し、エヴァンジェリスト君は、そこを離れ、自分の家に帰って行った。
それだけである。それだけのことであった。
『収まり切らない』想いからエヴァンジェリスト君が取った『行動』は、それだけのことであった。
それが、当時のエヴァンジェリスト君の『恋』であった。
『恋』はまだ始ったばかりであった。
後にエヴァンジェリスト君の友人となるピエール・トンミー君が、まだ『恋』も知らず、『いきものがかり』として、宇部市の琴芝小学校、『鶏』を相手に『戯れ』ていた時、エヴァンジェリスト君は、自分の『収まり切らない』想いが『恋』というものであることを徐々に知っていくのである。
(続く)
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