2017年10月25日水曜日

【ゲス児童】『くしゃれ緑』な『ウンギリギッキ』(その27)[M-Files No.5 ]



1966年、春の遠足である。

エヴァンジェリスト君と、彼が属する『広島市立皆実小学校』6年10組のクラスのみんなが乗ったヒロデン(広島電鉄)の貸し切りバスの中は、猛烈なギャグ合戦となっていた。

「ヒジョーにキビシイーっ!」
「ガチョーン!」

しかし、エヴァンジェリスト君は、級友たちのギャグに愛想笑いをするだけで、彼の視線は、ずっと、妄想の中の『妻』を捉えていた。4-5列前の席に座り、隣の女子と何かを話している『トウキョウ』子さんを凝視めていたのだ。

「アタリマエダのクラッカー!」
「シェーッ!」

男子たちは、『妻』を凝視め続けるエヴァンジェリスト君をよそに、更にギャグを飛ばしあっていたその時、一人の男子が、突然、訳の分らない言葉を発した。

「おー!おー!『くしゃれ緑』!」






「おー!おー!『くしゃれ緑』!」

と叫んだのは、ヨシタライイノニ君であった。

貸切バスの席から腰を浮かしたヨシタライイノニ君は、右手をまっすぐに窓外に伸ばし、どこかを指差していた。

『妻』に見とれていたエヴァンジェリスト君も思わず、ヨシタライイノニ君の指が差す先に目をやった。

その瞬間にもバスは前方に進行しているので、よくは分らなかったが、ヨシタライイノニ君の指の先にあったのは、どうやら映画館であった。

しかし、その映画館は、普通の映画館とは少々雰囲氣が異っていた。

エヴァンジェリスト君は、幼稚園の頃、ハハ・エヴァンジェリストに連れられて映画館に行った。



当時は、チャンバラ映画の全盛期であった。

ハハ・エヴァンジェリストは、チャンバラ映画好きであったのだろう。二人の兄たちは、エヴァンジェリスト君より4-5歳年上で小学校に行っているので、まだ幼稚園生のエヴァンジェリスト君だけ、映画に連れて行ったのであろう。

エヴァンジェリスト君は、幼稚園生ながら、母親とチャンバラ映画について語り合った。

「中村錦之助は、エエモン(正義の味方、ヒーロー)なんじゃが、ちょっとワルイモンよねえ」

中村錦之助(後の、萬屋錦之助)は、少しやんちゃで、楚々とした佇まいの他のチャンバラ映画スターに比べ、なんだか『ちょっとワルイモン』な感じがする、とハハ・エヴァンジェリストは、幼稚園生のエヴァンジェリスト君に同意を求めた。

「ほうよねえ。ボクは、東千代之介の方が好きじゃ」

エヴァンジェリスト君もそう答えた。

そんな会話をする程、ハハ・エヴァンジェリストとエヴァンジェリスト君とは、頻繁に映画館に通っていたのだ。

しかし、遠足の貸切バスの中から、ヨシタライイノニ君が、何故か指差し、

「おー!おー!『くしゃれ緑』!」

と叫んだ映画館は、エヴァンジェリスト君が足繁く通っていた映画館とは大きく異なる様子であった。

移動するバスの中から見ただけなので、明瞭に認識できた訳ではなかったが、その映画館の看板の描かれたものは、見てはいけないものであるように思えた。

何を見たのかもはっきりしないし、そのはっきりしないものも何故、見てはいけないものであるかは分らなかったが、本能的にエヴァンジェリスト君は頬の内側が、自分にしか分からない程度ではあるが、熱くなったのを感じた。

ヨシタライイノニ君が指差した映画館の看板には、肌を露わにした女性が描かれていたように見えたのだ。

その看板を指差し、ヨシタライイノニ君は、叫んだのだ。

「おー!おー!『くしゃれ緑』!」


………1966年の頃、山口県宇部市にも映画館は数館あり、『琴芝小学校』の6年生のビエール・トンミー君も、親に連れられて映画を見に行かないことはなかった。

しかし、チャンバラ映画には親も彼自身も全く興味がなく、『サウンド・オブ・ミュージック』や『マイ・フェアレディ』等を見た。さすがハイソな家柄であった。

何年生の頃であったかは定かな記憶はないが、ジャン・ギャバンの『レ・ミゼラブル』も見たように思う。

3時間以上の長い映画で、途中で眠ってしまったと思うが、眠りながらフランス語が耳に入ってきていた。

勿論、フランス語は知らず(英語も知らなかったのではあるけれど)、聞くとはなく聞いていただけであった。しかも、居眠りをしており、画面は見ていなかったのであるが、ビエール・トンミー君は、なんとなくストーリーを理解していたような記憶する。

それから10年余り後、ビエール・トンミー氏は、ハンカチ大学商学部に於いても、『フランス語経済学』で『優』なる成績を収めるという『奇跡』を起こす。フランス語では、『il』(彼)と『elle』(彼女)しか知らなかったにも拘らず。

ビエール・トンミー君は、宇部市の暗い映画館の席で、居眠りはしていたものの、いつの間にか股間を擦っていた。それが、無意識の内の集中力を生み、学びもしないフランス語を理解させたのかもしれなかった。

ハンカチ大学商学部に於いても、ビエール・トンミー氏は、試験の際に、右手にシャープ・ペンシルを持ち、左手は股間に置かれるのが常であったのだ。


(続く)




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