「オッカーノウエ…..」
鼻歌を口ずさみながら、老紳士が眼科から出てきた。
身なり佇まいはダなンディな、一見、大学教授風の老人であったが、目はあらぬ方向を見ていた。頬は少しく引きつり、笑っているのか、正気を失くしているのか、判然としなかった。
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朝の10時過ぎだ。眼科を受診して出て来たところだ。
診察内容はいつもと一緒で、いつもの目薬を処方してもらった。その場で、点眼もしてもらった。
いつもと違うのは受診した時間である。通常は午後であるが、今日はたまたま朝一番であった。
そして、もう一つ違うものがあった。先生からの挨拶である。
いつもは、『お大事に』であるが、今日は、『お大事に。行ってらっしゃい』であった。
私は軽い違和感を感じた。
「『行ってらっしゃい』と云われてもなあ。後は帰るだけなんだけどなあ。普通の人は、診療の後、朝だと何処かに行くのかなあ。やっぱり俺は普通の人とは違うのかなあ」
……と思いながら家路についた。
俺のことをまだ『現役』だと勘違いしているようだ。
アチラの方はまだ『現役』だが、仕事からはもう完全にリタイアしているのに。
看護師と受付嬢が、俺の方を見て、小声で『大学教授....』と話していたようなので、いつもドラクロワやムンク関係の本を小脇に抱える俺のことを西洋美術史を研究する大学の先生とでも思っているのだろう。
実は毎日、暇を持て余す、ただの退職老人なのだが、あの医師は、そのことを知らないのだろう。ましてや、まさか俺が変態だとは、気が付いてないはすである。
因みに、かかりつけのこの眼科医は、看護師や受付嬢から『トシ江先生』と呼ばれている、美人の女医さんである。
しかし、『トシ江先生』に、俺は、余り興味が湧かない。
『トシ江先生』は、男なら誰でもむしゃぶりつきたくなる程の美人だし、俺だって、『むしゃぶりついて下さい』、と云われたら、そりゃ、断りはしない。
しかし、気になることがあるのだ。
『トシ江先生』は、俺の友人にどこか似ているのだ。
友人とは、エヴァンジェリスト氏のことだ。男だ。俺程ではないがハンサムだ。女装させても綺麗だろうとは思う。
しかし、いくら綺麗でもアイツの顔を間近に見ながら『興奮』したくはない。綺麗だから『興奮』はすると思う。しかし、俺の中のもう一人の俺が俺自身に、友だちで『興奮』していいのか、と問うと思うのだ。
だから俺は、『トシ江先生』が診療で俺に身を近づけて来ても『自制』する。『自制』はするが、若干『興奮』はしてしまう。
それをあの女は見逃さない。
看護師の女だ。名前は知らない。
あの看護師は、何故か俺に敵意を抱いている、と俺は感じる。敵意ある視線を俺に送ってくるのだ。
(続く)
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