(参照:アメリカに自由はあったか(その14)【米国出張記】の続き)
「じゃ、ちょっと(上司に)電話するわ」
サンペイ先輩は、自宅アパートメントの電話機のボタンを押し、ホテル「Grand Hyatt New York」に電話を掛けた。
「もしもし、もしもし……..」
サンペイ先輩がホテル「Grand Hyatt New York」にいる(?)上司に電話をしている横で、エヴァンジェリスト氏は、まだ、その思いに耽っていた。
あの時、自分が別の判断をしていれば……..
自分が、例え1年であれ、ニューヨーク駐在を断らないでいれば、その後、妻に、
「私の人生、返して!」
と怒られることはなかったかもしれない。
あの時の判断で、妻の信頼を失ったのだ。
しかし、あの時の勝手な判断のバチが、今(1989年6月23日の今、だ)、ここでも(ニューヨーク郊外、だ)当たろうとしていたのであった。
「ダメだわ、ありゃ」
受話器を置いたサンペイ先輩が、エヴァンジェリスト氏に云った。
「あれは無理。まだ寝てる。(上司は)電話には出たけど、『フニャフニャ』云うだけで、何云ってるか、分らなかった。あれは、無理だ」
はあ!?無理って、どういうことだ。米仏合弁の提携先企業訪問はどうするのだ?
「仕方ないから、二人で行こう」
サンペイ先輩も同行して、3人で訪問する予定であったものの、上司が来ないなら、サンペイ先輩と自分と2人で行くしかないが、納得いかない。
ニューヨークには観光で来ているのではない。仕事だ。出張で来ているのだ。
体調を崩したのなら仕方がないが、そうではないのだ。明け方近くまで、酒を飲み、カラオケをしたからなのだ。
自分は、あの時の勝手な判断のバチが当たったのかもしれない。きっとそうであろう。しかし、だとしても、上司が許されるものではない!
憤慨しながらも、サンペイ先輩と再び、電車に乗り、米仏合弁の提携先企業に向った。
米仏合弁の提携先企業との打合せは、スムースに終った。上司がいなかったからだ。
少し冷静になったエヴァンジェリスト氏は、その打合せには、実は、上司が不要であったことを(不要が言い過ぎなら、足手まといであったことを)理解した。
上司がいたら、『通訳しないふりをして通訳をする』必要があったのだ(サンペイ先輩には、そうする必要がなかった)。
そして、打合せの内容も、上司は殆ど理解できないものであったのだ。
打合せで説明したフランスの提携先(訪問した米仏合弁企業のフランス側親会社だ)とのビジネスは、特殊なもので、エヴァンジェリスト氏にしか分らないものであったのだ。
サンペイ先輩もそのビジネスの内容は殆ど知らなかったが、英語でも相手と直ぐ仲良くなれるサンペイ先輩は、訪問先企業の代表と仲良く記念写真に収まった。
無事、米仏合弁の提携先企業との打合せを終え、サンペイ先輩とエヴァンジェリスト氏とは、グランド・セントラル駅に戻った。
その夜は、親会社の米国法人の方たち(日本人)と会食であった。
午後に米国法人オフィスを訪問し、その後に、親会社の米国法人の招待で会食をした。
たっぷり睡眠をとった上司は、元気一杯であった。相手が日本人で、日本語で話せることもあり、更に調子に乗り、また浴びるようにアルコールを飲み、北京ダックもたらふく食べた。
そう、会食の場所は、中国料理店であった。中華料理店ではなく、中国料理店である。それも、高級料理店であった。
ニューヨークで何故、中国料理店なのか、とは思ったが、美味しいのは確かであった。
エヴァンジェリスト氏もコーク片手に北京ダックを口にした。あの時以降、エヴァンジェリスト氏は未だに、北京ダックを食べてはいない。勿論、貧乏だからだ。
その夜、上司は、以前1年近くニューヨークにいた時の話を、親会社の米国法人の方たちにしていた。ニューヨークの街に自分が詳しいことを自慢げに話していた。
上司は、朝起きることができず、仕事をすっぽかしたことはおくびにも出さなかった。勿論、サンペイ先輩にもエヴァンジェリスト氏にも詫びることは全くなかった。
北京ダックに満足したからか、エヴァンジェリスト氏は憤慨する気持ちを失くしていた。
どこまでいっても甘ちゃんなエヴァンジェリスト氏であった。
翌日(1989年6月24日)は、米国滞在最後の日であった。その日を、エヴァンジェリスト氏は上司と二人で過ごしたのである。
(続く)