2017年7月31日月曜日

アメリカに自由はあったか(その15)【米国出張記】






「じゃ、ちょっと(上司に)電話するわ」

サンペイ先輩は、自宅アパートメントの電話機のボタンを押し、ホテル「Grand Hyatt New York」に電話を掛けた。

「もしもし、もしもし……..」

サンペイ先輩がホテル「Grand Hyatt New York」にいる(?)上司に電話をしている横で、エヴァンジェリスト氏は、まだ、その思いに耽っていた。

あの時、自分が別の判断をしていれば……..

自分が、例え1年であれ、ニューヨーク駐在を断らないでいれば、その後、妻に

「私の人生、返して!」

と怒られることはなかったかもしれない。

あの時の判断で、妻の信頼を失ったのだ。

しかし、あの時の勝手な判断のバチが、今(1989年6月23日の今、だ)、ここでも(ニューヨーク郊外、だ)当たろうとしていたのであった

「ダメだわ、ありゃ」

受話器を置いたサンペイ先輩が、エヴァンジェリスト氏に云った。

「あれは無理。まだ寝てる。(上司は)電話には出たけど、『フニャフニャ』云うだけで、何云ってるか、分らなかった。あれは、無理だ」

はあ!?無理って、どういうことだ。米仏合弁の提携先企業訪問はどうするのだ?

「仕方ないから、二人で行こう」

サンペイ先輩も同行して、3人で訪問する予定であったものの、上司が来ないなら、サンペイ先輩と自分と2人で行くしかないが、納得いかない。

ニューヨークには観光で来ているのではない。仕事だ。出張で来ているのだ。

体調を崩したのなら仕方がないが、そうではないのだ。明け方近くまで、酒を飲み、カラオケをしたからなのだ。

自分は、あの時の勝手な判断のバチが当たったのかもしれない。きっとそうであろう。しかし、だとしても、上司が許されるものではない!

憤慨しながらも、サンペイ先輩と再び、電車に乗り、米仏合弁の提携先企業に向った。

米仏合弁の提携先企業との打合せは、スムースに終った。上司がいなかったからだ。

少し冷静になったエヴァンジェリスト氏は、その打合せには、実は、上司が不要であったことを(不要が言い過ぎなら、足手まといであったことを)理解した。

上司がいたら、『通訳しないふりをして通訳をする』必要があったのだ(サンペイ先輩には、そうする必要がなかった)。

そして、打合せの内容も、上司は殆ど理解できないものであったのだ。

打合せで説明したフランスの提携先(訪問した米仏合弁企業のフランス側親会社だ)とのビジネスは、特殊なもので、エヴァンジェリスト氏にしか分らないものであったのだ。

サンペイ先輩もそのビジネスの内容は殆ど知らなかったが、英語でも相手と直ぐ仲良くなれるサンペイ先輩は、訪問先企業の代表と仲良く記念写真に収まった。



無事、米仏合弁の提携先企業との打合せを終え、サンペイ先輩とエヴァンジェリスト氏とは、グランド・セントラル駅に戻った。

その夜は、親会社の米国法人の方たち(日本人)と会食であった。

午後に米国法人オフィスを訪問し、その後に、親会社の米国法人の招待で会食をした。

たっぷり睡眠をとった上司は、元気一杯であった。相手が日本人で、日本語で話せることもあり、更に調子に乗り、また浴びるようにアルコールを飲み、北京ダックもたらふく食べた。

そう、会食の場所は、中国料理店であった。中華料理店ではなく、中国料理店である。それも、高級料理店であった。

ニューヨークで何故、中国料理店なのか、とは思ったが、美味しいのは確かであった。

エヴァンジェリスト氏もコーク片手に北京ダックを口にした。あの時以降、エヴァンジェリスト氏は未だに、北京ダックを食べてはいない。勿論、貧乏だからだ。

その夜、上司は、以前1年近くニューヨークにいた時の話を、親会社の米国法人の方たちにしていた。ニューヨークの街に自分が詳しいことを自慢げに話していた。

上司は、朝起きることができず、仕事をすっぽかしたことはおくびにも出さなかった。勿論、サンペイ先輩にもエヴァンジェリスト氏にも詫びることは全くなかった。

北京ダックに満足したからか、エヴァンジェリスト氏は憤慨する気持ちを失くしていた。




どこまでいっても甘ちゃんなエヴァンジェリスト氏であった。

翌日(1989年6月24日)は、米国滞在最後の日であった。その日を、エヴァンジェリスト氏は上司と二人で過ごしたのである。


(続く)






2017年7月30日日曜日

アメリカに自由はあったか(その14)【米国出張記】





あの時、自分が別の判断をしていれば……..

サンペイ先輩と、ニューヨークはグランド・セントラル駅から乗った電車の中で、アメリカ人通勤客を見ながら、思った。

あの時、自分が別の判断をしていれば……..

1989年6月23日(2017年の今から28年前のことだ)、サンペイ先輩とエヴァンジェリスト氏とは、ニューヨーク郊外の米仏合弁の提携先企業に向った。

途中に、サンペイ先輩のアパートメントがあるので、そこに立ち寄った。

前の晩遅くまで(というか、その日の未明まで)カラオケ・スナックにいた為、自分のアパートに帰れず、サンペイ先輩は、ホテル「Grand Hyatt New York」の上司の部屋に泊った(いや、2時間をそこで過ごした)のであったのだ。

そこで、シャワーと着替えの為、サンペイ先輩は、自分のアパートメントに立ち寄ることにしたのである。

エヴァンジェリスト氏も、サンペイ先輩のアパートメントに入った。上司は、一緒ではなかった。

その日の未明までカラオケ・スナックで飲んだくれた上司は、待合せの7時に起きて来れなかった。先に訪問先に向うよう云うので、サンペイ先輩と先に電車で郊外に向ったのである。

上司には、サンペイ先輩のアパートメントに立ち寄っている間に、追いついてくれればよかった。

サンペイ先輩のアパートメントは綺麗であった。アパートメントは、日本の『アパート』ではなかった。日本風に云うなら『マンション』であろう。

リビング・ルームには暖炉もあった。



単身赴任であったが、台所も綺麗に使っていた。



綺麗なアパートメントにいて、エヴァンジェリスト氏は再び、思った。

あの時、自分が別の判断をしていれば……..

それは、4-5年前のことであった。

今回一緒に出張している上司が、その更に2年前、約1年間、ニューヨークに駐在した。米国の提携先企業のニューヨーク・オフィスにいたのだ。そこで、英語を殆ど話すことなく、ごしたことは既に紹介した。

その駐在を継いだのが、サンペイ先輩であった。

サンペイ先輩もおよそ1年、ニューヨークにいた(今回=1989年の赴任の前の、初の海外赴任であった)。

サンペイ先輩は、その時は夫婦で赴任された。サンペイ先輩は、英語は上手いといは云えなかったが、ある程度は話すことはできた。

そのサンペイ先輩のニューヨーク駐在の後を継ぐことになっていたのが、エヴァンジェリスト氏なのであった

しかし、上司は、ニューヨーク駐在が1年では仕事らしい仕事はできないので、エヴァンジェリスト氏には2-3年はニョーヨークに居させたい、と考えた。

何れにしても、ニューヨーク駐在の指示がエヴァンジェリスト氏に下された

エヴァンジェリスト氏は、そのことを当然、妻に告げた。妻も一緒にニューヨークに行くことになるからであった。

妻は、海外赴任の準備を始めた。何事も完璧を期す女性である。

ニューヨークのサンペイ先輩からも、アパートの室内の写真と間取り図が送られて来た。サンペイ先輩夫婦が住むアパートをそのまま引き継ぐ予定であったからだ。

しかし、米国に仕事で2-3年赴任することは容易ではなかった。エヴァンジェリスト氏の会社は、米国に現地法人を持っていなかった。

ワーキング・ビザが容易にはおりないのだ。

上司と一緒に駐日米国大使館にも行き、相談したが、どうにもワーキング・ビザが取れそうにはなかった。

親会社は、米国に現地法人を持っているので、親会社に出向した形をとり、そこか親会社の現地法人に更に出向するようにすれば、ワーキング・ビザは取れなくはなかった。

しかし、親会社の現地法人に出向することによりワーキング・ビザを取る場合、米国人を数人、親会社の現地法人は雇用する必要が生じるのであった。日本人一人が、ワーキング・ビザを取り、米国で仕事をする場合には、米国人を数人、親会社の現地法人は雇用しなくてはならないのだ。

それは現実的ではなかった。

形式上は、親会社の現地法人に出向したようにするが、現実には、米国の提携先企業のニューヨーク・オフィスに席を置くのだ。その為に、親会社の現地法人が米国人を数人、雇用することはない。

しかし、上司は、エヴァンジェリスト氏に、予定通りニューヨークに赴任してもいい、と云った。

「俺、お前に、赴任の指示出してたからな。1年だけの駐在になるし、観光半分、仕事半分になるけど、ニューヨーク行っていいよ。どうする?」

と訊かれた。

その時、エヴァンジェリスト氏は、即、回答した。

「いえ、いいです。ニューヨークに行かなくていいです」

あの時、自分が、

「はい、行きます。ニューヨークに行きます」

と云っていれば、先程のようにニューヨークの通勤電車に乗るようになっていたであろう。

そして、今いるアパートメントではないが、サンペイ先輩から綺麗なアパートメントを引継いでいたであろう。

そう思った。そして、そう思った瞬間、ブルルと震えた。

妻の顔が目の前に浮かんできた。怒髪天をついた妻の顔である。

「どうしてくれるのよお!」

ニューヨーク行きを断ったことを報告した時のことであった。

「年賀状に書いたのよ!みんなに書いたのよ、来年の今頃はニューヨークにいますって!どうするのよお!何故、勝手に断るのおおおお!」

申し訳なかった、と思った。サンペイ先輩のアパートメント見て、あらためてそう思った。

今でも、『ニューヨーク』と聞くと、或いは、テレビで『ニューヨーク』が映ると、妻は不機嫌になる。エヴァンジェリスト家では、『ニューヨーク』はタブーだ。

あの時、自分がニューヨーク赴任を断っていなければ、息子は米国で生まれていたかもしれない。そうすると、成人するまでは二重国籍となり、国籍選択の際に米国を選び、今頃はアメリカ人となっていたかもしれない、とも思った。

しかし、過去は取り戻せない。まあ、仕方がない、と思うことにした。

だが、過去は取り戻せないであろうが、過去に行ったことのバチは当るのだ。そのことをエヴァンジェリスト氏は思い知らせることになるのだ。

シャワーを浴び、着替えを済ませたサンペイ先輩が、リビングルームに現れた。

「じゃ、ちょっと(上司に)電話するわ」

え?まだ、上司はまだホテルにいるのだろうか?これからホテルを出て、米仏合弁の提携先企業訪問に間に合うのだろうか?

サンペイ先輩は、自宅アパートメントの電話機のボタンを押し、「Grand Hyatt New York」に電話を掛けた。



(続く)






2017年7月29日土曜日

アメリカに自由はあったか(その13)【米国出張記】



(参照:アメリカに自由はあったか(その12)【米国出張記】の続き)



目を覚ますと、先ず、「う○こ」をした。

前日のロサンザルスの「(Compri)Hotel」とは違い、ニューヨークのホテル「Grand Hyatt New York」では、「う○こ」は無事、流れ、トイレも詰まることはなかった。

「(Compri)Hotel」が悪かったのではない。エヴァンジェリスト氏がいけないのだ。多分、トイレットペーパーを使い過ぎたのだ。

「お尻の穴の付近についたもの」を念入りに拭き過ぎたのだ。

その日は、トイレットペーパーの使い方、トレイの流し方を考えた。

拭くべきものはきちんと拭かないといけない。そうしないと、パンツにそれがついてしまうではないか。

だから、少しトイレットペーパーで拭くと、一旦、トイレの水を流した。その上で、更にトイレットペーパーで拭き、もう一度、トイレの水を流したのだ。

1989年6月23日(2017年の今から28年前のことだ)の朝のことであった。

午前6時、エヴァンジェリスト氏は、目覚し時計の音で目を覚ました。




眠い。それはそうだ。2時間程しか寝ていないのだ。しかし、7時に、上司とサンペイ先輩とロビーで待合せだ。

前夜(というか、ほんの2-3時間前)、「おにぎりと味噌汁」とそれから2-3杯のコークしかお腹に入れていないので、「う○こ」が出るかどうか心配であった。

朝に「う○こ」をしておかないと、日中に「う○こ」をしたくなるかもしれない。

しかし、ここは海外だ。生活の要領の分らないニューヨークだ。もよおした時、どこでトイレを使えるか分らない。だから、朝の内にトレイを「う○こ」を済ませておく必要があったのだ。

お腹の中に入ったものは少なかったが、しかし、毎朝、「う○こ」をする習慣が体にも染み付いていたのだろう。「う○こ」は無事に出た。

そして、トイレを詰まらせることもなかったのだ。

ようやくまともな旅(出張)になってきた。エヴァンジェリスト氏は、ホッとした。

そうして、シャワーを使い、歯磨きもし、着替えて、7時少し前にロビーに降りた。

上司もサンペイ先輩もまだ来ていなかった。

出すべきものを出し、汗も流したので、寝不足ではあったが、快適な朝であった。

しかし、エヴァンジェリスト氏は、程なく、この「世界一周の旅」(世界一周の出張)は、苦難の旅であることを再認識させられることになるのである。

時計が7時を回っても、上司もサンペイ先輩も来ない。

まあ、昨晩遅くまで(いや、今日の未明まで)飲んでいたのだから、多少は遅れるさ。

しかし、7時10分になっても、まだ来ない。少し心配になって来た。



だが、7時20分になり、

「よ、おはよ!」

サンペイ先輩が現れた。上司はどうした?

「あの人(上司のことだ)、まだ寝てるよ」
「え?」
「先に行ってくれ、って云うから、先ず、俺のアパートまで行こう」

サンペイ先輩のアパートメントは、その日の訪問先(米仏合弁の提携先企業)のオフィスに向う電車の途中にあるのだ。

「俺、アパートで、シャワー浴びて、着替えたいから。アパート着いたら、あの人にまだ電話するさ」

上司たるものが、この体たらくは何なんだ、と思ったが、まあ、提携先企業訪問までに来てくれればいい。まだ、時間はある。サンペイ先輩は、自分のアパートに立ち寄ることを計算して、朝7時という早めの時間で待合せたのだ。

こうして、サンペイ先輩とエヴァンジェリスト氏とは、グランド・セントラル駅から電車に乗った。

7時台であったが、電車には通勤客が少なからずいた。海外で、通勤電車に乗っていることが、なんだか不思議であった。

今回の海外出張は、エヴァンジェリスト氏にとってまだ2回目であったが、海外で通勤電車に乗るには初めてであったのだ。

ニューヨークの前に行ったロザンゼルスでは、移動は総て自動車であった。

初の海外出張であったトロントでも、移動は総て自動車であったのだ。

しかし、あの時、自分が別の判断をしていれば、自分もニューヨークで毎日、通勤電車に乗っていたんだろうなあ、とアメリカ人通勤客を見ながら、感慨にふけった。

あの時、自分が別の判断をしていれば……..




(続く)






アメリカに自由はあったか(その12)【米国出張記】





「サンペイ、俺、おにぎりと味噌汁、喰いてえ」

コーナーの席に座ると同時に、上司が叫んだ。

1989年6月22日(2017年の今から28年前のことだ)、夜の12時過ぎ、いや、その時刻は既に6月23日だ。12時過ぎというよりも午前1時に近い時間である。

ホテル「Grand Hyatt New York」を出て、ニューヨークの夜の街を、『俺の街』顔でさっさと歩く上司についてエヴァンジェリスト氏が到着した店でのことであった。

「いらっしゃーい、オツカレさまあ」

店のママの元気な声が迎えてくれた。日本人ママのスナックであった。

サンペイ先輩ともう一人のニューヨーク駐在の先輩が笑顔で待っていた。

「大変でしたねえ」
「おー」

と答え、上司は云った。

「サンペイ、俺、おにぎりと味噌汁、喰いてえ」

エヴァンジェリスト氏は、驚くというか、呆れてしまった。

何を無茶を云うのだ。ここはニューヨークだ。しかも、深夜なのだ。

だが、さすが、「三木のり平」ばりに宴会部長の異名をとるサンペイ先輩であった。

「わっかりましたあああ」

と叫ぶと、サンペイ先輩は、スナックを飛び出した。

そうして、10分余り後、サンペイ先輩は、上司が望む「おにぎりと味噌汁」を持ち帰ってきた。

驚いた。自分にはできない。そんなことを要求することも、それに応えることも。呆れたものだ、と思ったが、エヴァンジェリスト氏もサンペイ先輩が何処からか入手した「おにぎりと味噌汁」を美味しく頂いた。



「おにぎりと味噌汁」を食すると、

「唄うぞお!」

と、上司はカラオケを始めた。そこは、カラオケ・スナックであった。

上司と先輩たちは、アルコールも浴びるように飲んだ。エヴァンジェリスト氏は、コークを飲んだ

歌を唄い、アルコールを浴び、コークを飲む時間が過ぎていった。

疲れた。エヴァンジェリスト氏は、もういい加減ホテルに戻り、眠りたかった。

エヴァンジェリスト氏が歌ったのは1曲だけであった。杉良太郎の「明日の詩」だ。

コークも2-3杯飲んだだけで、もう欲しくはなかった。

ロサンゼル空港で、飛行機のトラブルで4時間近く待たされ、そこからニューヨークまでの5時間半のフライトで疲れた。

ホテル「Grand Hyatt New York」に到着するなり、上司に、サンペイ先輩と待合せの店まで連れて行かれたものの、その店は既にその夜は閉店しており、ホテル「Grand Hyatt New York」戻った。その時点で、エヴァンジェリスト氏はもう倒れてしまいそうであった。

しかし、あくまでサンペイ先輩に会うことに拘る上司に『待機』を命じられ、サンペイ先輩と連絡が取れると、再び、夜のニューヨークの街を歩かされ、カラオケ・スナックまで来たのだ。

ニューヨークまで来て、何故、日本にいるのと何ら変りのない日本人ママのカラオケ・スナックに来ないといけないのだ。

お腹は空いていたので、サンペイ先輩手配の「おにぎりと味噌汁」は有り難かったが、その後のアルコール(エヴァンジェリスト氏は、コーク)とカラオケに、エヴァンジェリスト氏の肉体は限界を越えようとしていた。

ああ、これもバチが当たったのだ。エヴァンジェリスト氏は、そう思った。

成田からのJAL便に乗り遅れ、ロサンゼルスのホテル「(Compri)Hotel」のトイレを詰まらせ、そして、そのことを「(Compri)Hotel」にきちんと伝えなかった。

そういったことのバチを今、ニューヨークで受けているのだ。

だが、もう疲れ果てた。ああ、眠い!

エヴァンジェリスト氏の「世界一周の旅」(世界一周の出張)は、苦難なのであった。

午前3時過ぎ、自身も疲れた上司は、ようやく

「帰るかあ」

と云い、エヴァンジェリスト氏と上司と二人の先輩は、スナックを出た。

サンペイ先輩は、エヴァンジェリスト氏と上司とをホテル「Grand Hyatt New York」まで送ってくれた。

そう思ったが、事情は少々違っていた。ニューヨーク郊外のアパートに住むサンペイ先輩は、午前3時過ぎでは、当然、終電に間に合わず帰宅できなかったのだ。

そして、してはいけないことであったが、サンペイ先輩は、ホテル「Grand Hyatt New York」の上司の部屋にこっそり泊ることにしたのだ

そんなことをしていいのか、と常識派のエヴァンジェリスト氏は思った(自分に部屋に泊る、と言われなく、ほっとはしていたが)。

しかし、仕方がなかったし、泊るというよりも、ちょっと上司の部屋に立ち寄る、という言い訳がサンペイ先輩の理屈であったかもしれない。

確かに、泊るという程の滞在時間ではなかったのだ。

ホテル「Grand Hyatt New York」の部屋に戻る時、既にグデングデンになっていた上司に代り、サンペイ先輩が云った。

「じゃ、7時にロビーで待合せな」

もう4時近かった。3時間後だ。

しかし、明日は(正確には、その日であった。6月23日だ)、仕事があるのだから仕方がない。訪問先のオフィスは、ニューヨークの郊外にあるので、そこに行くまで少々、時間を要する。

仕方がない、とは思ったが、エヴァンジェリスト氏はまだまだ甘かった。

エヴァンジェリスト氏は、「世界一周の旅」(世界一周の出張)は、苦難の旅であることをまだ十分に認識できてはいなかった。

その認識がないまま、ホテル「Grand Hyatt New York」の部屋に戻ると、ベッドに倒れ込み、直ぐに眠りについた。



ただ、目覚し時計を6時にセットすることは忘れなかった。7時の待合せなので、その前にシャワー、トイレを済ませる必要があったのだ。

こうして、エヴァンジェリスト氏は、ほんの2時間余りの睡眠についたのであった。



(続く)






2017年7月28日金曜日

アメリカに自由はあったか(その11)【米国出張記】






1989年6月22日(2017年の今から28年前のことだ)、夜の11時過ぎ、エヴァンジェリスト氏は、ニューヨークの街を上司の自慢話を聞かされながら、歩いていた。

以前、上司がニューヨークに駐在していた時のこと、バーで隣り合せたアメリカ人の誘いで、あるビルの地下に行き、ピストルの試し打ちをしたことがあるのだそうだ。

上司は、英語が殆どできないのに1年近くも駐在したニューヨークの街について、『俺の庭』だと言わんばかりに、エヴァンジェリスト氏に解説し続けた。

「へええ、凄いですねえ」

エヴァンジェリスト氏は、適当な相槌を打っていた。どうでもいいから、早くサンペイ先輩の待つ和食の店に行き、食事を済ませ、ホテル「Grand Hyatt New York」に戻り、眠りたかった。

….と、上司の日本語の他にも、あちこちから日本語が聞こえてきた。

夜目によく見ると、どうやら日本人らしき人たちが、何人もすれ違っていくのだ。

へええ、ニューヨークって結構、日本人がいるんだ、と驚いていると、上司が云った。

「マズイな。もう店閉まっているかなあ?」

???疑問であった。な、何だって?上司は何を云っているのだ!?

「ニューヨークの店は、大体10時頃で閉めるからなあ」

何を云うのだ。自分たちは、サンペイ先輩の待つ和食の店に向っているのだ。もう夜の11時を過ぎている。だが、その店に向っているのだ。

本当は、もう食事はいいから、ホテル「Grand Hyatt New York」に戻って寝たいのだ。なのに、夜のニューヨークの街を歩きながら、上司の自慢話を聞かされていたのだ。それなのに、今になって……

そうこうする内に、上司は歩を止めた。やはり目指す和食の店は閉っていたのだ。

「一旦、ホテルへ帰るぞ!」

上司の『一旦』という言葉に、エヴァンジェリスト氏は愕然とした。諦めないのか?

今と違って、携帯電話のない時代だ。サンペイ先輩と連絡を取るのは難しい。なのに、上司はまだ諦めないのだ。

「部屋で待ってろ」

ホテル「Grand Hyatt New York」に戻り、上司の指示があった。

「サンペイから連絡が絶対くるから、部屋で待ってろ」

エヴァンジェリスト氏は、もう観念していた。

ニューヨークの飲食店は、大体夜の10時くらいで閉店しているのではないのか、なのに、サンペイ先輩から連絡があったとしても、こんな時間から何処に行くのだ。

そんな疑問がなくはなかった(夜10時くらいで大体、閉店、という情報は、英語も分からずニューヨークにいた男からのものだということに考えを到らせる余裕が、その時、エヴァンジェリスト氏にはなかった)。

しかし、もう観念していた。

自分が悪いのだ。飛行機に乗り遅れ、ホテルとトイレを詰まらせ、なのに「OUT OF ORDER」と書いた紙を置いただけでホテルを後にした自分が悪いのだ。

そうだ、トイレに行こう。




考えてみたら、ロサンゼルス空港を4時間遅れで出発する前にオシッコをして以来、していなかった。

「う◯こ」ではないから、詰まらせることはない。

と思いながらも、水を流す時は心配であった。

問題なし!詰まることはなかった。

ほっとした。ほっとしたところで、気を引き締め、思った

明朝(と云っても、既に日付は変っていたが)、「う◯こ」をするときが「本番」だ。その時こそ気をつけよう。

そうして、ベッド横にある椅子に座り、テレビの電源を入れた。



番組もCMも総て英語であった。初めての海外出張ではなかったが、あらためて、ここは海外(米国)なのだなあ、と思った。

テレビの中の白人も黒人も、何を云っているのか、さっぱり分らなかった。反省した。エヴァンジェリスト氏だって、反省することはあるのだ。

英語ができない上司をどこかでバカにしていたが、自分だって、英語は殆ど聞き取ることができないではないか。

英語ができないのに、ニューヨークに1年間、駐在し続けることが自分にできるのか。

何を云っているのか分からないテレビを観ながら、ほんの少しだが、心の中で上司に詫びた。

しかし、やはりエヴァンジェリスト氏は、甘かった。上司に詫びる必要はなかったのだ。心の中で、とはいえ。

この後、身勝手な上司にまた振り回れることになるのであったのだ。

電話が鳴った。上司からである。

サンペイ先輩から連絡があったのだ。

「行くぞ!」

上司は元気だった。

ロビーで待合せると、『俺の街』をさっさと行く上司のあとを追うようにして、何処かに向った。



(続く)






2017年7月26日水曜日

アメリカに自由はあったか(その10)【米国出張記】





ホテル「Grand Hyatt New York」で寛ぎたかった。エヴァンジェリスト氏は疲れていたのだ。

1989年6月22日(2017年の今から28年前のことだ)、エヴァンジェリスト氏が上司と共に、ロサンゼルスからニューヨークに向う飛行機便が、機体に不具合があった模様で、4時間程、遅れたのだ。

JFK空港に午後6時55分着の予定であったものが、午後10時半過ぎにようやく到着したのである。

JFK空港からタクシーに乗った。

そして、夜11時過ぎ、到着したホテル「Grand Hyatt New York」は、ニューヨークの中心である「グランド・セントラル」駅の上にある超高級ホテルであった。

食事を簡単に済ませ、ベッドに倒れ込みたかった。

Grand Hyatt New York」のフロントでチェックインを終えると、上司が云った。

「部屋に荷物置いたら直ぐに行くぞ」

サンペイ先輩が待つ和食の店に行こうというのだ。

米国に来て和食を食べなくてもいいのに、とは思ったが、まあいい、とにかく早く食事を終え、眠りにつきたかった。

エヴァンジェリスト氏と上司とは、「Grand Hyatt New York」を出て、どこかに向った(サンペイ先輩が待つ和食の店がどこにあるのか、エヴァンジェリスト氏は知らなかった)。

上司がどんどん歩いて行き、エヴァンジェリスト氏はただ着いて行くだけであった。

英語は分らなかったとはいえ、上司は、1年弱、生活したニューヨークの街の地理は分っているようであった。

上司は、歩きながら、ニューヨークの街をエヴァンジェリスト氏に解説した。

いや、思い出に浸っているだけのようであった。少なくともエヴァンジェリスト氏は、その解説に興味はなかった。

「あの辺のビルの地下だったと思うんだよなあ」

上司は、歩きながら、ある夜のことを語り出した。

バーで隣り合わせた男(米国人)が、上司の手を取り、自分の胸にそれを持っていったそうだ。手に硬いものを感じた。

ピストルであった。

『撃ちたいか?』と訊かれ、『Oh, Yes!』と答え、バーを出て行ったのが、『あの辺のビルの地下』であったのだそうだ。

『あの辺のビルの地下』で、ピストルを何発か撃ったのだそうだ。




アメリカではピストル所持は許されているので(ニューヨークもそうであったのかは知らなかったけれど)、上司がピストルを撃ったこと自体を否定はできなかったものの、果して、上司は、そんな会話をアメリカ人とできたのか、という疑問はあった。

後に、エヴァンジェリスト氏は、米国の提携先の日系人から聞いた。

「あの人(エヴァンジェリスト氏の上司)は、凄いですね。ニューヨークにいる間(駐在している間)、英語で殆ど話をしなかったそうなんですよ。オフィスに出社しても『Good Mroning』くらいしか云えないので、オフィスのアメリカ人たちも、最初はランチに誘ったりしていたそうだけど、その内、あの人とは全く話もしなくなったそうです。それでよく1年近く、ニューヨークにいたもんだ、と感心します」

しかし、その夜、上司は、目的の和食の店に向いながら、ニューヨークの街の解説という自慢話を続けたのであった。

店にはなかなか着かない。もう11時を過ぎているのだ。

もう食事はいいから、「Grand Hyatt New York」に戻って寝たい。なのに、夜のニューヨークの街を歩きながら、上司の自慢話を聞かされているのだ。

ニューヨークの路地を見ると、何だか怖さを感じた。そこに犯罪が潜んでいるように思えるのだ。

空腹でなくはなかったが、それよりも眠気と恐怖の方が強かった。

だが、これもバチであるのかもしれなかった。

成田からのJAL便に乗り遅れ(一応、上司に迷惑をかけた)、ロサンゼルスのホテル「(Compri)Hotel」のトイレを詰まらせ、そして、そのことを「(Compri)Hotel」にきちんと伝えなかった。

そういったことのバチを今、ニューヨークで受けているのかもしれなかった。

しかし、疲れた。眠い!



(続く)






2017年7月25日火曜日

アメリカに自由はあったか(その9)【米国出張記】





今はHiltonの『Double Tree』というホテルになっているロサンゼルスの「(Compri)Hotel」にトイレを詰まらせたことをきちんと伝えなかったバチが当ったのか、エヴァンジェリスト氏の苦難はまだまだ続いたのである。

尚、ロサンゼルスの「(Compri)Hotel」、とはしているが、「(Compri)Hotel」があったのは、厳密にはロサンゼルスではない。ロサンゼルス郊外の街、El Segundo(エル・セグンド)であった。

しかし、まあ、いいではないか。東京ディズニーランドだって千葉にあるのだから。

トイレを詰まらせたことを黙ったままのエヴァンジェリスト氏は、上司と共に、1989年6月22日(2017年の今から28年前のことだ)、そのロサンゼルスからニューヨークに向う予定であった。

ロサンゼルス空港からニューヨークのJFK空港まで、軽くひとっ飛び、のはずであった。

ロサンゼルスからニューヨークまでは勿論、国内線であるが、実は、軽くひとっ飛び、ではない。フライトに5時間20分くらいかかるのだ(時差を考慮すると6時間20分だ)。

アメリカは広い。

だが、午前10:35発なので、JFK空港には午後6:55には到着する。日本からロサンゼルスまでの太平洋横断よりはマシだ。

そのはずであった。

しかし、このエヴァンジェリスト氏の「世界一周の旅」(世界一周の出張)は、苦難の旅であるのだ。

午後6時過ぎ、エヴァンジェリスト氏と上司とは、機内に入り、席についた。

機内アナウンスは英語だ。何かを云っている。荷物の収納のことでも云っているのだろう。そう思っていた。

実際、席についた頃はそうであったかもしれない。

ところが、出発時間の午前10:35が来ても、一向に出発しようとしない。出発しようがないどころか、ドアを閉めようともしていない。

その頃の機内アナウンスは、何だか雰囲気がそれまでと違っていた。

そうこうしている内に、黄色いヘルメットを被り、作業着を着た人たちが機内に入って来た。腰には、工具をぶら下げていた。



なんだ、なんだ、なんだ!?

おいおい、冗談じゃあないぜ。何が起こったか知らないが、機内に作業員(整備士であろうか)が、ヅカヅカと入ってくるのは尋常ではない。

エヴァンジェリスト氏は、動揺した。上司も、

「おい、どうしたんだ?」

と、英語が分からない分、余計に不安になっていた。

アナウンスをよく聞くと、機体になんらかのトラブルが発生したようであった。上司にもそう告げた。

そして、エヴァンジェリスト氏と上司が座っている席の下あたりで、ドリルするような音が聞こえて来た。

ぎょ、ぎょ、漁業協同組合だ!何してるんだ!?

それから程なくして、乗客は一旦、飛行機を降りろ、と云っているように聞こえた。聞き間違いではなかった。周りの乗客たちは、席を立ち始めた。

エヴァンジェリスト氏と上司も機外に出た。そして、しばらく搭乗口付近にいた。

アナウンスでは、修理には相当時間がかかるようなことを云っている。

その英語を聞き取れている自分に少し感心した。しかし、感心している場合でもなかったので、上司にもその状況を伝えた。

「マジかよお!」

上司は不機嫌だ。

「マズイなあ。サンペイが待ってるんだ」

サンペイは、当時、ニューヨークに駐在していたエヴァンジェリスト氏の先輩だ。上司の後輩にして部下である。ニューヨークにやって来る上司とエヴァンジェリスト氏とを待っているのだ。

上司は、公衆電話をかけに行った。まだ携帯電話のない時代であった。英語はできないが、1年弱、ニューヨークにいたからか、公衆電話のかけ方は分っているようだ。しかも相手は日本人だ。

それから、エヴァンジェリスト氏と上司とは、待ちに待った。1時間が過ぎ、2時間が過ぎた。

そうして、4時間くらいして、ようやく再び、機内に入ることができ、ニューヨークに飛び立ったのであった。

エヴァンジェリスト氏は反省した。

「(Compri)Hotel」のトイレを詰まらせたことを、そして、そのことを「(Compri)Hotel」にきちんと伝えなかったことを反省した。

そんなんだからバチが当ったのだ。そう思った。4時間近い航空便の遅れは辛い。それも海外でなのだ。

JFK空港に着いた頃、エヴァンジェリスト氏はヘトヘトになっていた。午後6時55分到着予定であったものが、午後10時半を過ぎていた。

宿泊予定のホテル「Grand Hyatt New York」に早く入り、ゆっくりしたい。眠りたい。

しかし、35歳のエヴァンジェリスト氏は、甘かった。このエヴァンジェリスト氏の「世界一周の旅」(世界一周の出張)は、苦難の旅であるのだ。

上司と共に、JFK空港からタクシーに乗り、「Grand Hyatt New York」に向ったエヴァンジェリスト氏は、その後に控えていた試練というか苦難をまだ知らなかった。




(続く)