2017年7月6日木曜日

アムステルダムで『彼女』に会った(その4)【ヨーロッパ出張記】






2017年7月4日早朝から、エヴァンジェリスト氏は、岩手県は久慈市に向った。急用が発生したからである。

新幹線で二戸まで行き、そこでレンタカーで久慈市まで1時間程度で到着する。昔に比べるとずいぶん近くなった。

….と云うと、如何にも自分がレンタカーを運転したように聞こえるが、運転したのは、義理の甥である。エヴァンジェリスト氏は未だに運転免許を持っていない。

2017年7月4日の二戸は、涼しいというよりも寒い、という方が相応しいくらいであった。まるで、1989年7月のアムステルダムのように。


アムステルダムも、寒かった。そして、怖かった。いや、寒いのは確かであったが、怖さは、そう思い込んでいただけであったのであろう。

1989年7月2日(今から28年前だ)に到着したアムステルダムには、7月5日まで滞在したが、その間、少しだけした仕事以外では、エヴァンジェリスト氏は、宿泊したホテル・オークラ・アムステルダムに篭っていた。

寒く、怖かったのである。アムステルダムの街が、寒く、そして、怖かったのだ。

しかし、ホテルの部屋に篭ってばかりだと、帰国して妻に怒られることは明白であったので、体をすぼめるようにして、少しだけ外出をした。

寒風吹きすさび、道路に捨てられた紙くずが舞う街ではあったが、アムステルダムは、それでもヨーロッパの美しい街であった。パリのような華やかさはないが、落ち着いた美しさを持つ街であった。



電話会社は、当時(1989年)、まだ民営化されないでいたが、そのPTTの電話ボックスも、街の緑に馴染むものであった。



運河に架かる橋も風情があった。



運河も美しく、心和むものであった。



運河沿いのどこかに、アンネ・フランクの隠れ家があったのであろうが、そこまで行くことはしなかった。

事前に調べてもいなかったし、今のようにiPhoneで検索すればすぐ分るという時代ではなかった。フランスにはミニテルがあり、今のインターネットがあるのと同じような生活が送れていたが、オランダにはミニテルはなかった。

アンネ・フランクのことに想いを馳せながら、エヴァンジェリスト氏は頬を赤らめた。

『アンネ』という言葉が、恥ずかしかったのである。今の若い人たちは知らないかもしれないが、『アンネ』は女性が毎月にように体験するあるものの代名詞であったからだ。


ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ通りも歩いてみた。正確には、彷徨いている内に、気づいたら、歩いている通りが「ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ通り」であったのだ。

そこには、ゴッホが、血の出た耳を押さえて蹲っていることはなかった。

当時、ピーター・アーツやアーネスト・ホーストの存在を知っていたら、彼らのハイキックを耳に受け、流血したゴッホの姿を、その通り(ゴッホ通り)に妄想していたかもしれない。

ゴッホが、自ら耳を削ぎ落としたのではなく、或いは、キラー・カール・コックスのロープ最上段からのニードロップで耳が削ぎ落とされたのでもなく、K-1選手の殺人キックを受けたのであろう、と。

しかし、ゴッホ通りには、いずれにせよ、血の吹き出した耳を手で押さえたゴッホがうずくまっている訳でもなく、ひまわり一輪、そこに転がっていることもなかった






(続く)





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