1989年6月25日、エヴァンジェリスト氏は、宿泊するホテル・カリフォルニアの直ぐ近くにある「凱旋門」の屋上から「シャンゼリゼ通り」を見、次に、反対側に行き、遠くに、「新凱旋門」を見た。
そして、最後に、「シャンゼリゼ通り」に向って斜め左方面を見た。
フリードラン通り(Avenue de Friedland)方面である。
その先にあるドーム建築は、その時は何かは知らなかった。
フランス文學界の最高峰のOK牧場大学大学院のフランス文学専攻の修士課程を修了したものの、エヴァンジェリスト氏は、フランス文学にも、フランスという国にも興味はなかったのだ。
ほんの一時期、ハナヱモリ.グループに籍を置き、森英恵先生と個人面談をした際にも可愛げのないことを云ったくらいなのだ。
森英恵先生は、若きエヴァンジェリスト氏に優しく云ってくれた。
「あなた、フランスに行きたいんでしょ?」
エヴァンジェリスト氏は、失礼にも森英恵「大先生」(本当に偉大な先生なのだ)に、ただこう答えたのだ。
「いいえ」
それは嘘ではなかったのだ。
そうだ、エヴァンジェリスト氏がハナヱモリ.グループに入社したのは、ファッションが好きだったからでもなく、ファッションにつながるフランスが好きだったのでもなく、ただただ、当時好きだった女性が、同じファッション業界に入っていたからだったのである。
(参照:【WWD】青春のハナヱモリ(その7))
「あなた、フランスに行きたいんでしょ?」
という森英恵先生の言葉に、
「はい!」
と応えていれば、若きエヴァンジェリスト氏は、早々にフランス出張をするか、フランス勤務していたかもしれない。
しかし、エヴァンジェリスト氏の答は、
「いいえ」
であったのだ。
そのくらいなので、パリに、エッフェル塔や凱旋門、ルーブル美術館があるくらいは知っていたが、そのほかにどんな建物やどんな場所があるかは知らなかった。
エトワール凱旋門からフリードラン通り(Avenue de Friedland)方面の先にあるドーム建築が、「サン・オーギュスタン教会(Eglise Sait Augustin)」であることは、その時は知らなかった。
そして、「サン・オーギュスタン教会(Eglise Sait Augustin)」のさらに斜め左方面にある丘にも、その時(1989年)、エヴァンジェリスト氏は気付かなかった。
「モンマルトル(Montmartre)」である。
「モンマルトル」は知らなくはなかったが、「モンマルトル」に興味はなかった。だから、「凱旋門」の屋上から、「モンマルトル」を探すことはなかったし、「モンマルトル」が見えていてもそれと気付かなかったのだ。
「モンマルトル」が芸術家たちの街であることは知っていたが、興味はなかったので、1989年のパリ滞在の間には、「モンマルトル」まで行くこともなかった(その2年後には、「モンマルトル」の丘を登ることにはなったのだが)。
仮に、「モンマルトル」に興味があったとしても、1989年のパリ滞在中のエヴァンジェリスト氏には「自由」がなかったのだ。
だから、「凱旋門」の屋上で、「モンマルトル」を探すでもなく、ただ心の中でこう叫んでいたのだ。
「A moi La liberté(自由を我に)」
その時、「モンマルトル」に気付いたら、それは、広島の「比治山」に似ている、と思ったかもしれない。
「比治山」には、蒲鉾形の建物が特徴的な「放射線影響研究所」(以前は、ABCC=「原爆傷害調査委員会」という米国の機関であった)があり、「モンマルトル」とは少々イメージは違う(「比治山」には、「ひろしま文芸の碑」や「正岡子規句碑」があるので、芸術と縁がなくはない)。
しかし、小高い丘であることは「モンマルトル」に似てはいた。
また、その時、「モンマルトル」まで行っていたならば、東京の「愛宕山」に似ている、と思ったかもしれない。「愛宕山」も「比治山」のように小高い丘のような山である。
「モンマルトル」の階段は、「愛宕山」の階段に似ている、と思ったかもしれない。
しかし、その時、エヴァンジェリスト氏は、心の中でこう叫んでいたのだ。
「A moi La liberté(自由を我に)」
1989年のパリのエヴァンジェリスト氏には、パリの街を散策する「自由」はなかった。仮に、「モンマルトル」に興味があったとしても、「モンマルトル」まで行くことは不可能であったのだ。
(続く)
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