1989年6月25日から7月2日まで、エヴァンジェリスト氏は、出張でパリにいた。
その年(1989年)は、フランスにとってただの年ではなかったのだ。エヴァンジェリスト氏の滞在後、間も無く来る革命記念日(パリ祭)は、普段の年の革命記念日ではなかったのだ。
1989年は、革命200年の記念の年であり、1789年7月14日、バスティーユ襲撃を契機に革命が発生した「フランス革命」から200年の記念すべき革命記念日となるのであった。
革命200年祭である。「bicentenaire」であった(正式には、「Le bicentenaire de la Révolution」)。
しかし、妙なことがあった。
パリの街は、「bicentenaire」の準備の追われていた。エッフェル塔も夜間、特別なライトアップがされていた。
ところが、ライトアップされた夜のエッフェル塔に浮かび上がっていた文字は、「100 ans」であったのだ。
「100 ans」は、「100年」である。何故、「200 ans」ではないのだ。「200年」のはずではないのか?
いや、間違いではなかった。
その年(1989年)は、エッフェル塔(La tour Eiffel)にとっても特別な年であった。
エッフェル塔が竣工されたのは、1889年であった。
そう、1989年は、エッフェル塔竣工から丁度100年であったのだ。だから、「100 ans」であったのだ。
1989年は、革命200年祭「bicentenaire」の年でもあり、エッフェル塔竣工から100年の記念の年でもあったのである。
エヴァンジェリスト氏は意図せず、フランスにとって特別な年にパリに出張したのであった。
そして、エヴァンジェリスト氏は、パリで、もう一つ、その年だからこそのものを訪れた。
「ルーヴル・ピラミッド」(Pyramide du Louvre)である。
パリのルーヴル美術館の中庭であるナポレオン広場 (Cour Napoléon) にあるガラスで覆われたピラミッドだ。
ルーヴル美術館のメイン・エントランスである。
建設当時は、歴史あるルーヴル美術館(ルーヴル宮殿)に、超近代的なものを建設することで、賛否両論の論争になったものであるらしい。
しかし、パリのランドマークとなっている、この「ルーヴル・ピラミッド」が建設されたのも、そう、1989年であったのだ。
勿論、、革命200年祭「bicentenaire」を記念して建設されたのだ。
設計した中国系アメリカ人イオ・ミン・ペイは、滋賀県の「MIHO MUSEUM」も設計したそうだが、ルーヴル・ピラミッド」を訪れた当時(1989年)、そんなことは知らないエヴァンジェリスト氏は、ガラスのピラミッドに、ただ不思議な感覚を抱きながら、「ルーヴル・ピラミッド」から「ルーヴル美術館」に入った。
ミロのヴィーナスも見た。
楽しかったか?感動したか?
うーむ。
「ルーヴル美術館」(Musée du Louvre)でも、エヴァンジェリスト氏は心の中で叫んでいた。
「A moi La liberté(自由を我に)」
かの有名なルーヴル美術館にいるのだ、という感慨はあったが、そう、「ルーヴル美術館」に行ったのも、上司と一緒であったのだ。自分のしたいこと、自分に行きたいところに行くだけで、エヴァンジェリスト氏の意向を聞こうとはしない上司と一緒であったのだ。
「ルーヴル美術館」に来るのなら、そう、妻と一緒に来たかった。妻にも「ルーヴル美術館」を見せてやりたかった。
その後も、滞在中(1989年6月25日から7月1日)、ホテルの部屋にいる間以外は、殆ど上司と一緒であったのだ。
「A moi La liberté(自由を我に)」
(続く)
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