1989年6月25日から7月2日まで、エヴァンジェリスト氏はパリにいた。出張である。
「凱旋門」に登った。その後に、「シャンゼリゼ通り」を、パリの街を歩いた。
しかし、楽しくはなかった。上司と一緒だったからだ。
パリでも、パリに来る前にいた米国でも(ロサンゼルス、ニューヨークでも)、ホテルの部屋にいる時以外は、ずっと上司と一緒なのであったのだ。
そして、その上司は、自分のしたいこと、自分に行きたいところに行くだけで、エヴァンジェリスト氏の意向を聞こうとはしない人だったのである。
だから、エヴァンジェリスト氏は心の中で叫ぶのであった。
「A moi La liberté(自由を我に)」
しかし、「自由」のない中で、エヴァンジェリスト氏はパリの街を必死で見た。その様子を必死でカメラに収めた。
「シャンゼリゼ通り」を美しい清掃人、美しい清掃車が清掃していた。
しかし、その磨き方が普段とは少々違うのではないか、と思ったのであった。
普段のパリ、普段の「シャンゼリゼ通り」を知っている訳ではなかったが、エヴァンジェリスト氏は、その「清掃」の様子に普段との差を感じたのだ。
そうだ、その年(1989年)は、フランスにとってただの年ではなかったのだ。
間も無く来る革命記念日(パリ祭)は、普段の年の革命記念日ではなかったのだ。
1989年は、革命200年の記念の年であったのだ。
1789年7月14日、バスティーユ襲撃を契機に革命が発生した。「フランス革命」である。
1989年の7月14日は、その「フランス革命」から200年の記念すべき革命記念日となるのであった。
革命200年祭である。「bicentenaire」と云われていた。正式には、「Le bicentenaire de la Révolution」である。
その年(1989年)、エヴァンジェリスト氏がパリにいたのは、仕事で用があったから、つまり出張だったからである、「bicentenaire」であったからではない。
記念すべき年のパリを見たかったからではない。既に述べた通り、フランス文學界の最高峰のOK牧場大学大学院の修士課程を修了したものの、エヴァンジェリスト氏は、フランスが好きであった訳ではないのだ。関心もなかったのである。
「bicentenaire」の時にパリにいたのは、「たまたま」なのであった。
「フランス革命」は世界史で習い、知らないことはなかったが、詳しくは知らない。しかし、「フランス革命」から200年の時にパリにいるのだと知り、フランスに興味はないとはいえ、エヴァは、ある種の感慨を覚えるのであった。
しかし、シャイヨー宮からエッフェル塔を見た時、疑問が生じた。
ライトアッされた夜のエッフェル塔に浮かび上がっていた文字は、「100 ans」であったのだ。
「100 ans」は、「100年」である。何故、「200 ans」ではないのだ。「200年」のはずではないのか?
(続く)
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