(参照:アメリカに自由はあったか(その5)【米国出張記】の続き)
ロサンゼルス空港に着いたものの、公衆電話を掛けるのに苦労し、ホテルの無料バスを見つけることはできず、仕方がないのでタクシーに乗ろうとしたものの、タクシー乗り場でも右往左往したエヴァンジェリスト氏であった。
1989年6月21日にスタートした「世界一周の旅」(世界一周の出張)は、苦難の旅であった(2017年の今から28年前のことだ)。
何とか何とか、『(Cpmpri)Hotel』まで到着することができた。
しかし、試練はまだエヴァンジェリスト氏を待っていた。
チェックインを済ませたフロントで、上司が到着しているか、尋ねた。
既に到着している、という回答であったので、では、部屋番号を教えてくれ、と頼んだ。
しかし、これには『No』という答が返ってきた。想定外であった。
今からすると、これは当然のことであった。個人情報保護の観点からすると、ホテル側は『Yes』と答え、エヴァンジェリスト氏に上司の部屋番号を知らせてはならない。
しかし、当時(1989年)は、日本のホテルでは、同行者の部屋番号なら教えてくれるものであった。今なら、日本のホテルも、『Cpmpri)Hotel』と同じく、エヴァンジェリスト氏の要望を拒否するであろう。
だが、エヴァンジェリスト氏は困った。ホテルに着けば、直ぐに上司と連絡がつくと思っていたものが、それができないのである。
まさか、ここでまた苦難に出会うとは思っていなかった。いく先々で面倒が生じるのだ。
呪われているのかと思ったが、そんなことを思っている場合ではない。部屋番号が分らぬと、上司に電話を入れることができない。
そう主張すると、『貴方が到着したことを貴方の上司に伝え、貴方の上司から貴方の部屋に電話をしてもらうようにする』とフロント・マンは答えた。
致し方ない。では、そうしてくれるよう頼み、自分の部屋に行った。
ところで、このやり取りは英語である。皆さんが理解できないといけないので、日本語訳で書いたが、実際のやり取りは英語であったのだ。
エヴァンジェリスト氏は、海外に提携先のあるビジネスをしているので、普段、英語を使ってはいたが、日常的には、英語を聞いたり、喋ったりはしていなかった。
英語の読み書きはできるが、英語を聞き取ったり、喋ったりすることは殆どできない典型的な日本人であった。
なのに、フロントでのやり取りを英語ですることができたのだ。何だか、できるビジネスマンになったような気がした。
ホテルの部屋は、綺麗であった。ソファもあった。
機能的でもあった。仕事ができるよう、机もあった。
ソファに座り、部屋を見渡していると、電話が鳴った。上司からであった。
飛行機に乗り遅れたことを詫びた。そして、時間を決め、ホテルのレストランで、上司と後輩と落ち合い、一緒に食事を摂った。
食事を摂りながら、再度、飛行機に乗り遅れたことを詫びたが、代りに乗ったシンガポール航空の素晴らしさを自慢した。
エヴァンジェリスト氏はまだ若かった。ここはひたすら詫びておくべきなのである。
また、上司と話して分ったのであるが、実は、上司と後輩とが予定通り乗ったJAL便は、搭乗し、飛行機のドアが閉まった後で、何らかのトラブルが発生し、離陸が少し遅れたのだそうだ。
離陸の時間を聞くと、実は、エヴァンジェリスト氏の乗ったシンガポール航空機の方が、少し早く成田空港を飛び立っていたようであった。
「はははは」
エヴァンジェリスト氏は勝ち誇ったように笑った。
結果として、ロサンゼルス空港に到着したのは、上司と後輩の乗ったJAL便の方が早かったようなので、
「じゃ、太平洋上でシンガポール航空機を追い越したんですね。そうと分っていたら、窓からそちらに手を振ったんですけどねえ。はははは」
と、再び、エヴァンジェリスト氏は軽い口を叩いた。
エヴァンジェリスト氏はまだ若かった。礼というものを知らなかった。
そのバチをエヴァンジェリスト氏は受けなければいけなかったのだ。
しかし、その夜は(「世界一周の旅」(世界一周の出張)の第1夜だ)、ホテルの広いベッドで心地よい眠りについた。
翌朝、翌日、自分が受けるバチをまだ、知る由もなかった。
(続く)
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