2017年7月28日金曜日

アメリカに自由はあったか(その11)【米国出張記】






1989年6月22日(2017年の今から28年前のことだ)、夜の11時過ぎ、エヴァンジェリスト氏は、ニューヨークの街を上司の自慢話を聞かされながら、歩いていた。

以前、上司がニューヨークに駐在していた時のこと、バーで隣り合せたアメリカ人の誘いで、あるビルの地下に行き、ピストルの試し打ちをしたことがあるのだそうだ。

上司は、英語が殆どできないのに1年近くも駐在したニューヨークの街について、『俺の庭』だと言わんばかりに、エヴァンジェリスト氏に解説し続けた。

「へええ、凄いですねえ」

エヴァンジェリスト氏は、適当な相槌を打っていた。どうでもいいから、早くサンペイ先輩の待つ和食の店に行き、食事を済ませ、ホテル「Grand Hyatt New York」に戻り、眠りたかった。

….と、上司の日本語の他にも、あちこちから日本語が聞こえてきた。

夜目によく見ると、どうやら日本人らしき人たちが、何人もすれ違っていくのだ。

へええ、ニューヨークって結構、日本人がいるんだ、と驚いていると、上司が云った。

「マズイな。もう店閉まっているかなあ?」

???疑問であった。な、何だって?上司は何を云っているのだ!?

「ニューヨークの店は、大体10時頃で閉めるからなあ」

何を云うのだ。自分たちは、サンペイ先輩の待つ和食の店に向っているのだ。もう夜の11時を過ぎている。だが、その店に向っているのだ。

本当は、もう食事はいいから、ホテル「Grand Hyatt New York」に戻って寝たいのだ。なのに、夜のニューヨークの街を歩きながら、上司の自慢話を聞かされていたのだ。それなのに、今になって……

そうこうする内に、上司は歩を止めた。やはり目指す和食の店は閉っていたのだ。

「一旦、ホテルへ帰るぞ!」

上司の『一旦』という言葉に、エヴァンジェリスト氏は愕然とした。諦めないのか?

今と違って、携帯電話のない時代だ。サンペイ先輩と連絡を取るのは難しい。なのに、上司はまだ諦めないのだ。

「部屋で待ってろ」

ホテル「Grand Hyatt New York」に戻り、上司の指示があった。

「サンペイから連絡が絶対くるから、部屋で待ってろ」

エヴァンジェリスト氏は、もう観念していた。

ニューヨークの飲食店は、大体夜の10時くらいで閉店しているのではないのか、なのに、サンペイ先輩から連絡があったとしても、こんな時間から何処に行くのだ。

そんな疑問がなくはなかった(夜10時くらいで大体、閉店、という情報は、英語も分からずニューヨークにいた男からのものだということに考えを到らせる余裕が、その時、エヴァンジェリスト氏にはなかった)。

しかし、もう観念していた。

自分が悪いのだ。飛行機に乗り遅れ、ホテルとトイレを詰まらせ、なのに「OUT OF ORDER」と書いた紙を置いただけでホテルを後にした自分が悪いのだ。

そうだ、トイレに行こう。




考えてみたら、ロサンゼルス空港を4時間遅れで出発する前にオシッコをして以来、していなかった。

「う◯こ」ではないから、詰まらせることはない。

と思いながらも、水を流す時は心配であった。

問題なし!詰まることはなかった。

ほっとした。ほっとしたところで、気を引き締め、思った

明朝(と云っても、既に日付は変っていたが)、「う◯こ」をするときが「本番」だ。その時こそ気をつけよう。

そうして、ベッド横にある椅子に座り、テレビの電源を入れた。



番組もCMも総て英語であった。初めての海外出張ではなかったが、あらためて、ここは海外(米国)なのだなあ、と思った。

テレビの中の白人も黒人も、何を云っているのか、さっぱり分らなかった。反省した。エヴァンジェリスト氏だって、反省することはあるのだ。

英語ができない上司をどこかでバカにしていたが、自分だって、英語は殆ど聞き取ることができないではないか。

英語ができないのに、ニューヨークに1年間、駐在し続けることが自分にできるのか。

何を云っているのか分からないテレビを観ながら、ほんの少しだが、心の中で上司に詫びた。

しかし、やはりエヴァンジェリスト氏は、甘かった。上司に詫びる必要はなかったのだ。心の中で、とはいえ。

この後、身勝手な上司にまた振り回れることになるのであったのだ。

電話が鳴った。上司からである。

サンペイ先輩から連絡があったのだ。

「行くぞ!」

上司は元気だった。

ロビーで待合せると、『俺の街』をさっさと行く上司のあとを追うようにして、何処かに向った。



(続く)






0 件のコメント:

コメントを投稿