(参照:アメリカに自由はあったか(その10)【米国出張記】の続き)
1989年6月22日(2017年の今から28年前のことだ)、夜の11時過ぎ、エヴァンジェリスト氏は、ニューヨークの街を上司の自慢話を聞かされながら、歩いていた。
以前、上司がニューヨークに駐在していた時のこと、バーで隣り合せたアメリカ人の誘いで、あるビルの地下に行き、ピストルの試し打ちをしたことがあるのだそうだ。
上司は、英語が殆どできないのに1年近くも駐在したニューヨークの街について、『俺の庭』だと言わんばかりに、エヴァンジェリスト氏に解説し続けた。
「へええ、凄いですねえ」
エヴァンジェリスト氏は、適当な相槌を打っていた。どうでもいいから、早くサンペイ先輩の待つ和食の店に行き、食事を済ませ、ホテル「Grand Hyatt New York」に戻り、眠りたかった。
….と、上司の日本語の他にも、あちこちから日本語が聞こえてきた。
夜目によく見ると、どうやら日本人らしき人たちが、何人もすれ違っていくのだ。
へええ、ニューヨークって結構、日本人がいるんだ、と驚いていると、上司が云った。
「マズイな。もう店閉まっているかなあ?」
???疑問であった。な、何だって?上司は何を云っているのだ!?
「ニューヨークの店は、大体10時頃で閉めるからなあ」
何を云うのだ。自分たちは、サンペイ先輩の待つ和食の店に向っているのだ。もう夜の11時を過ぎている。だが、その店に向っているのだ。
本当は、もう食事はいいから、ホテル「Grand Hyatt New York」に戻って寝たいのだ。なのに、夜のニューヨークの街を歩きながら、上司の自慢話を聞かされていたのだ。それなのに、今になって……
そうこうする内に、上司は歩を止めた。やはり目指す和食の店は閉っていたのだ。
「一旦、ホテルへ帰るぞ!」
上司の『一旦』という言葉に、エヴァンジェリスト氏は愕然とした。諦めないのか?
今と違って、携帯電話のない時代だ。サンペイ先輩と連絡を取るのは難しい。なのに、上司はまだ諦めないのだ。
「部屋で待ってろ」
ホテル「Grand Hyatt New York」に戻り、上司の指示があった。
「サンペイから連絡が絶対くるから、部屋で待ってろ」
エヴァンジェリスト氏は、もう観念していた。
ニューヨークの飲食店は、大体夜の10時くらいで閉店しているのではないのか、なのに、サンペイ先輩から連絡があったとしても、こんな時間から何処に行くのだ。
そんな疑問がなくはなかった(夜10時くらいで大体、閉店、という情報は、英語も分からずニューヨークにいた男からのものだということに考えを到らせる余裕が、その時、エヴァンジェリスト氏にはなかった)。
しかし、もう観念していた。
自分が悪いのだ。飛行機に乗り遅れ、ホテルとトイレを詰まらせ、なのに「OUT OF ORDER」と書いた紙を置いただけでホテルを後にした自分が悪いのだ。
そうだ、トイレに行こう。
考えてみたら、ロサンゼルス空港を4時間遅れで出発する前にオシッコをして以来、していなかった。
「う◯こ」ではないから、詰まらせることはない。
と思いながらも、水を流す時は心配であった。
問題なし!詰まることはなかった。
ほっとした。ほっとしたところで、気を引き締め、思った。
明朝(と云っても、既に日付は変っていたが)、「う◯こ」をするときが「本番」だ。その時こそ気をつけよう。
そうして、ベッド横にある椅子に座り、テレビの電源を入れた。
番組もCMも総て英語であった。初めての海外出張ではなかったが、あらためて、ここは海外(米国)なのだなあ、と思った。
テレビの中の白人も黒人も、何を云っているのか、さっぱり分らなかった。反省した。エヴァンジェリスト氏だって、反省することはあるのだ。
英語ができない上司をどこかでバカにしていたが、自分だって、英語は殆ど聞き取ることができないではないか。
英語ができないのに、ニューヨークに1年間、駐在し続けることが自分にできるのか。
何を云っているのか分からないテレビを観ながら、ほんの少しだが、心の中で上司に詫びた。
しかし、やはりエヴァンジェリスト氏は、甘かった。上司に詫びる必要はなかったのだ。心の中で、とはいえ。
この後、身勝手な上司にまた振り回れることになるのであったのだ。
電話が鳴った。上司からである。
サンペイ先輩から連絡があったのだ。
「行くぞ!」
上司は元気だった。
ロビーで待合せると、『俺の街』をさっさと行く上司のあとを追うようにして、何処かに向った。
(続く)
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