====== 「公開」が操作ミスにより、遅れました。申し訳ありません。=====
「エヴァさん、曲がれるよね?」
列のすぐ前にいた女性が振り向いて云ったその言葉を聞いた時、エヴァンジェリスト氏は、『冤罪弁護士』として、儲けにはならないが、刑事事件を扱う『今村核』氏のことを知り、『今村核』もやはり『曲がったことが嫌いな男』なんだなあ、と思うようになることを、まだ知らなかった。
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会社の同期の皆でスキーに行くことなり、エヴァンジェリスト氏が、同期の1人であるオン・ゾーシ氏の依頼でオン・ゾーシ氏運転のセダンに同乗していたが、軽井沢のやや急なその坂道を登り切れず、別の道を行くことになった1982年の冬……….
『軽井沢』という言葉から、エヴァンジェリスト氏は、OK牧場大学文学部1年(1974年だ)の自分を想い出していた。
OK牧場大学文学部1年の時(1974年だ)、エヴァンジェリスト氏は、所属した大学公認サークルの『四田文学学生会』の夏合宿で、軽井沢に来たのだ。
エヴァンジェリスト氏には、OK牧場大学文学部に入ったからには『文学者』にならないといけない、という思い、そして、歴史ある『四田文学』の一員に自分もならなくてはならない(その一員になることができる大学に入ったのだから)、という焦燥感のようなものもあった。
更に、合宿は、軽井沢で開催されることも、エヴァンジェリスト氏に参加の気持ちを持たせた。
軽井沢は、金持ちだけが行く場所であった。そこには、自分が永久に触れることもないであろうと想っていた華やかな女性もいる…….
しかし、『四田文学学生会』の夏合宿のあった軽井沢は、草の生い茂った場所で、高級避暑地を思わせるものは何もなく、合宿にいたのも、暗い文学者然とした先輩や、やたら声高に『文学』を論じる同期たちだけであった。
詰まらなかった。エヴァンジェリスト氏にとって、『四田文学学生会』の夏合宿は、堪らなく詰まらないものであった。
そもそも文学に興味があったのではない。エヴァンジェリスト氏に興味があったのは、遠藤周作とFrançois MAURIAC(フランソワ・モーリアック)だけであった。
OK牧場大学文学に入ってからも、極端な偏食ならぬ『偏読』であった。
読むのは、遠藤周作とフランソワ・モーリアック、そして、やはり遠藤周作の影響で、グレアム・グリーン、ジュリアン・グリーン、マルキド・サドだけであった。
因みに、遠藤周作が、そして、その影響を受けたエヴァンジェリスト氏が、マルキド・サド(サド侯爵)に関心を持ったのは、『サディスト』であったからではなく、『義人』ではないマルキド・サド(サド侯爵)は、『偽善への嫌悪』の象徴であったからであった。
『四田文学学生会』の夏合宿で、エヴァンジェリスト氏は、自分が『文学者』ではないこと、『文学者』にはなれないことを知った。
それなのに、エヴァンジェリスト氏は、OK牧場大学の大学院修士課程文学研究科フランス文学専攻にまで行ってしまったが、それは、ただただ、遠藤周作の『孤独』、フランソワ・モーリアックの『孤独』への共感からなのである。
夏合宿以降、エヴァンジェリスト氏は一切、『四田文学学生会』の部室にも、合宿等のイベントにも顔を出すことはなかった。
2年生になり、四田のキャンパスでフランス文学専攻になると(OK牧場大学文学部は、教養課程は1年だけで、2年からは専攻に入る)、そこには、エヴァンジェリスト氏の股間に『大異変』を生じさせる女性が出現し、『四田文学』のことも、『四田文学学生会』ことも考えることはなくなった。
しかし今(1982年の冬)、スキー場に向う途中、
『キュ、キュ、キューッ!』
と、乗ったクルマが凍結した坂道を転げ落ちそうになり、そこが軽井沢と聞いた時、エヴァンジェリスト氏は、『四田文学学生会』を苦く思い出したのだ。
「(結局、ボクは、『文学者』にはなれなかった。いや、ならなかった)」
OK牧場大学に入った頃には、まさか自分がサラリーマンになるとは想っていなかった。
「(そして、ボクは、『ボルグ』にも『マッケンロー』にもなれなかった…..)」
エヴァンジェリスト氏は、多分、氏以外の誰にも理解不能な、もう一つの回想を始めた。
(続く)
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