2018年5月1日火曜日

【曲がったことが嫌いな男】石原プロに入らない?入れない?[その75]



「エヴァさん、曲がれるよね?」

列のすぐ前にいた女性が振り向いて云ったその言葉を聞いた時、エヴァンジェリスト氏は、統合幕僚監部に所属する幹部自衛官がある国会議員に対して、「お前は国民の敵だ」という、ある意味で『真っ直ぐな』言葉を発することはまだ知らなかったが、『Civilian Control』なるものが空虚な概念であることは既に知っていた。


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エヴァンジェリスト氏は、ペンを置き、右手で左胸を抑え、目を閉じた。

1980年12月、上池袋の『3.75畳』の下宿でエヴァンジェリスト氏は、小さな炬燵に足を入れ、修士論文『François MAURIAC論』を書いていた。

François MAURIAC』(フランソワ・モーリアック)の小説Le désert de l' amour]で妻以外の女(マリア・クロス)に恋する医師クーレージュは、独白する。

マリア、私は、貴女が思うようなものではないのだ。私は、ただただ浅ましい男なのだ。他の男たち同様、欲望に取り憑かれている男にすぎないのだ」

エヴァンジェリスト氏は、医師クーレージュの独白に胸が詰まる。比喩的表現ではなく、実際に、肉体的に胸が詰まるのだ。

自分がモーリアックの小説を読むのは、そして、修士論文『François MAURIAC論』を書くことも、己の醜さを知り、それに苦しむモーリアックの作中人物たち思いを辿り、彼らに、

「貴方たちの苦しみを私は知っている。貴方たちだけではないのだ。私も同じなのだ。私の心も醜悪だ」

伝える行為であった。

それは、快感でもあったが、やはり辛い行為であった。医師クーレージュやルイの心中の叫びに共感することに、快感があったことは間違いないが、彼らの苦しみを共にすることは、肉体的な苦しみをエヴァンジェリスト氏に与えていた。

「私は、ただただ浅ましい男なのだ」

という医師クーレージュの独白、彼の絶望に、エヴァンジェリスト氏は、苦しさを覚えた。だから、目を閉じ、右手で左胸を抑えたのである。

しかし、エヴァンジェリスト氏の身に、モーリアックの作中人物への共感による苦しみよりも遥かに強烈な苦痛が与えられるのだ。






『愛の砂漠』で妻以外の女(マリア・クロス)に恋する医師クーレージュは、救われるに到らない。夫を毒殺しようとした『テレーズ・デスケイルー』も救われるに到らない。

しかし、『蝮の絡み合い』の主人公であるルイは、憎悪と吝嗇に蝕まれた罪の人間であるが、彼は救いへと導かれる。

それは、モーリアックが、ルイに次のように語らせるからである。

「私の性格を形成しているのは、恐ろしいばかりの明晰さだ。その明晰さは、どんな女性をも捉えたはずだ。君(妻のこと)だけは違ったが。多くの男たちにあっては、生きるよすがともなる自分自身を欺くずるさというものが、私にはずっと欠けていたのだ」

エヴァンジェリスト氏は、それを『罪人の復権』とでも呼ぶべき思想と考える。

ルイは、自分の子どもの中で唯一愛した娘マリーとの、ミサに行くという約束を破った日について、次のように記す。

「人気がなく息詰まるようなボルドーの町で、怖ろしい(terrible)一日を過ごした」

この『terrible』という気持ちこそは、罪の自覚から生まれるものである。

己が罪人であることを知ること、即ち、己の罪、己の悲惨を見ることだけでは、罪人は救われない。

しかし、己を見ること、己の罪の自覚は、『罪人の復権』につながるものなのだ。

『罪人の復権』とは、簡単に云うと、

「罪人こそ義人、即ち、救われる人間である。己が罪人であることを知っていることによって」

である。

モーリアックは、精神的自叙伝とも云われる『続・内面の記録』(Nouveaux mémoires intérieurs )の中で『罪人の復権』について記述していたはずだ。

そう思い、エヴァンジェリスト氏は、『続・内面の記録』を確認しようとした。

修士論文『François MAURIAC論』を書くにあたり、エヴァンジェリスト氏は、参考文献を机がわりの炬燵の上に置き、そこに置ききれないものは、座布団代わりとしていた万年床の布団の上に、自らの体を取り巻くように置いていた。

Nouveaux mémoires intérieurs』(続・内面の記録)は、座った体のほぼ真後ろに置いてあった。

エヴァンジェリスト氏は、炬燵に足を入れたまま、体を180度回そうとした。



「うっ!」


(続く)



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