2018年5月2日水曜日

【曲がったことが嫌いな男】石原プロに入らない?入れない?[その76]



「エヴァさん、曲がれるよね?」

列のすぐ前にいた女性が振り向いて云ったその言葉を聞いた時、エヴァンジェリスト氏は、『TOKIO』の山口達也メンバーが不祥事を起こし、その謝罪会見で涙ながらに、『TOKIO』への復帰に触れたことについて、『TOKIO』のリーダーである城島茂が『あり得ない』と一喝したことを知り、城島茂も『曲がったことが嫌いな男』なのだなあ、と思うようになることを、まだ知らなかった。


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『愛の砂漠』で妻以外の女(マリア・クロス)に恋する医師クーレージュは、救われるに到らない。夫を毒殺しようとした『テレーズ・デスケイルー』も救われるに到らない。

しかし、『蝮の絡み合い』の主人公であるルイは、憎悪と吝嗇に蝕まれた罪の人間であるが、彼は救いへと導かれる。

1980年12月、上池袋の『3.75畳』の下宿で、小さな炬燵に足を入れ書いていた修士論文『François MAURIAC論』の中で、エヴァンジェリスト氏は、François MAURIAC』(フランソワ・モーリアック)の最高傑作『蝮の絡み合い』(『Le Nœud de Vipères』)を境にフランソワ・モーリアックの小説は変わる、と捉えていた。

モーリアックは、『蝮の絡み合い』の主人公ルイに、自分の子どもの中で唯一愛した娘マリーとの、ミサに行くという約束を破った日について、次のように語らせた。

「人気がなく息詰まるようなボルドーの町で、怖ろしい(terrible)一日を過ごした」

この『terrible』という気持ちこそは、罪の自覚から生まれるものである。

己が罪人であることを知ること、即ち、己の罪、己の悲惨を見ることだけでは、罪人は救われ流ものではないが、己を見ること、己の罪の自覚は、『罪人の復権』につながるものなのだ。

『罪人の復権』とは、簡単に云うと、

「罪人こそ義人、即ち、救われる人間である。己が罪人であることを知っていることによって」

である。

エヴァンジェリスト氏は、モーリアックは、精神的自叙伝とも云われる『続・内面の記録』(Nouveaux mémoires intérieurs )の中で『罪人の復権』について記述していたはず、と思い、その『続・内面の記録』を確認しようとした。

修士論文を書くにあたり、エヴァンジェリスト氏は、参考文献を机がわりの炬燵の上に置き、そこに置ききれないものは、座布団代わりとしていた万年床の布団の上に、自らの体を取り巻くように置いていた。

『続・内面の記録)』は、座った体の真後ろに置いてあり、エヴァンジェリスト氏は、炬燵に足を入れたまま、体を180度回そうとした。

「うっ!」






「うっ!」

という声を発したきり、エヴァンジェリスト氏はそれ以上、声を出すことができなくなった。

そして、体を左100度程、回したまま、そのままの姿勢で万年床に体を倒した。

「(うっ!)」

苦悶の声は、声にならなかった。

『曲がった』体勢のまま、斜め上に天井を見た。



医師クーレージュ、テレーズ・デスケイルーの苦しみ、ルイの苦しみへの共感はもうなかった。

「(死ぬう….)」

人生で初めて、『死』を意識した。

「(このまま、この体勢のままでボクは死ぬのか……?)」

上池袋の『3.75畳』の下宿に来る者はいない。『彼女』がそこに来るのは(『彼女』を連れ込むのは)、まだ2-3年先のことなのだ。

「(動けない……ううーっ!)」


(続く)


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